台場築造を指揮した幕府のエリートたち 

 では、幕末にこのような大事業に携わったのは、どのような人物だったのでしょうか。

 冨川氏の調査によれば、品川台場の「普請(=工事)」を現場で指揮した「御台場掛役人」の中には、万延元年遣米使節にゆかりのある人物が3名いたそうです。

●小田切清十郎為行(徒目付/万延元年遣米使節に参加した幕臣・日高圭三郎為善の実父)

●益頭駿次郎尚俊(普請役/当時33歳/万延元年遣米使節、文久遣欧使節に参加)

●栗嶋彦四郎(小人目付/のちに彦八郎と改名/当時42歳/万延元年遣米使節に参加)

 ちなみに、佐野鼎は遣米使節で渡米した際、上記、益頭駿次郎の従者という立場でしたので、特に深い関係だったと思われます。

益頭駿次郎。遣欧使節で訪れたオランダで撮影された肖像写真

 また、品川台場築造に関しては、老中・阿部正弘が普請を命じてからの約1年間にわたって、『内海御台場築立御普請御用中日記』(通称・高松日記)という大変詳細な記録を残した人物がいました。

 幕府の小人目付(こびとめつけ)という役職についていた幕臣・高松彦三郎(1818~63)です。当時35歳だった高松彦三郎は、佐野鼎と同じく長崎海軍伝習所出身で、蘭学や航海術など、当時最先端の知識を身に着けていたと思われます。

 品川歴史館発行の『品川の海に御台場ができるまで-日記でひも解く170年前の大工事-』によると、台場築造の進行役を担っていた高松の日記には、1本4間半(約8.1メートル)の杭打ち作業は、30人掛かりだったことが記されているそうです。杭1本打ち込むのにも、人力では大変な作業だったのですね。こうした作業に関わった人々は、品川周辺の寺社を宿舎として単身赴任で泊まり込み、干潮時を見計らって現場へ出向いていたそうです。

 台場築造の任務を遂行した高松は、その後、文久遣欧使節にも抜擢され、佐野鼎、益頭駿次郎、福澤諭吉らとともに欧州各国を訪れました。帰国後は金10両(約100万円)を褒美として受け取りましたが、帰国の翌年、44歳で亡くなったそうです。

高松彦三郎。オランダの写真館にて撮影

 海外列強の侵略から日本を守るため、台場の築造に心血を注いだ優秀な幕臣たち。そのわずか数年後、自分たちが外国から迎えに来た軍艦に乗って地球を一周することになろうとは、想像もしていなかったのではないでしょうか。