ペリーが日本を離れた6日後には東京湾を見分、2カ月後には着工

 お台場築造のきっかけは、1853年6月3日、アメリカのペリー率いる軍艦、いわゆる「黒船」が来航したことにはじまります。外国船の襲来を脅威に感じた幕府は、彼らが江戸湾の奥まで侵入してくるのを防ぐため、急きょ、品川沖に大砲を備える砲台(台場)を築く必要に迫られたのです。

 ペリー艦隊は日本に来航してから9日後の6月12日に退去したのですが、幕府はそれからわずか6日後の6月18日、すでに江戸湾海防見分を実施していました。いかに外国船への対策を急いでいたかがわかります。

 当時の江戸湾には、大川(今の隅田川)、中川などから流れ出た土砂が堆積した砂州があり、砂州と砂州の間に谷状の地形ができていました。幕府はその砂州の突端に台場を築くべく、同年8月には着工していたのです。

当時のお台場
現在のお台場。第三台場(現在の「台場公園」)と第六台場だけが残っている

 工事は海を埋め立てて人工島を作るところから始まりました。冨川氏はその工法についてこう解説します。

「まず、横須賀や横浜で採掘した土丹岩(どたんがん)という粘土質の岩を船で運び、満潮時の海面より高く積み上げて、その内側を埋め立てて島を作りました。次に石垣の重さに耐えられるよう、湿気に強い杉や松の木を加工した長い杭を地中に打ち込み、その上に土台を組んで石垣を作っていくのです。その工法は、基本的に江戸城築城時と同じでした」

品川区立品川歴史館に展示されているお台場築造模型(筆者撮影)

 埋め立てが完了し、島がつくられた後は、埋めた土が雨風で流されないよう表面に芝生が敷き詰められ、その上に江戸や佐賀などで製造された最新型の大砲が設えられました。それぞれの台場では24時間体制で海上の警備が続けられたそうですが、この場所で軍事演習は行われたものの、幕府の厳命によって実際の軍事行動は一切行われなかったそうです。

大砲が設置された台場の模型=品川区立品川歴史館(筆者撮影)

 結果的に、品川沖に6基の台場が完成するまでに、約1年4カ月(1853年8月~1854年12月)が費やされました。完成した台場の総面積は4万7669坪(157.583.47平米)、東京ドーム3.4個分の広さでした。

 気になる総工費は、約96万両。1両を10万円で計算した場合、約960億円という莫大な経費が投じられたそうです。