日本からの砲撃で帰国を断念

 音吉らが漂流後、ようやく日本に戻れることになったのは、さらに1年半以上たった1837年7月のことでした。

 このとき、宝順丸の3人と、薩摩からの漂流民4人は、アメリカの商船モリソン号に乗せられて日本に向かいました。

「5年ぶりに、生きて日本の地を踏むことができる・・・」

 彼らはどれほど嬉しかったことでしょう。

 しかし、その期待は残酷にも打ち砕かれます。

 幕府は日本人の漂流民を受け入れないどころか、鹿児島と浦賀でいきなり砲撃してきたのです。

 モリソン号は軍艦ではなく、商船です。大砲も積んでいない非武装の船を、なぜ・・・。

 目の前に懐かしい故郷の山々が見えているのに、母国からの思わぬ砲撃を受けたとき、その絶望はどれほどのものだったでしょうか。

 結局、音吉たちは日本に上陸することすら叶わず、そのままマカオに引き返すしかなかったのです。

 この事件を境に、音吉たちは祖国・日本へ帰国することはあきらめました。

 すでに20歳になっていた音吉は、その後、イギリスの商船や軍艦に雇ってもらい、懸命に働き続けます。

1849年、通訳として中国から日本にやってきたときの音吉(Wikipediaより)

 そして、1843年に上海へ渡ってからは、イギリス兵として阿片戦争にも従軍します。その後は、イギリスの商社に勤めて貿易業に従事し、シンガポールに移り住むまでの18年間を上海で暮らしました。

「オトソン」を名乗り、日本語の通訳をするようになったのもこの頃でした。

 日本語を話せる漂流民の音吉は、イギリス人にとって格好の人材だったのでしょう。音吉は日本人であることを隠し、林阿多(リンアトゥ)という中国人として来日。通訳官として幕府側と接したこともあったのです。

『開成をつくった男、佐野鼎』には、音吉と佐野鼎の出会いが結ぶ不思議な偶然にも触れています。

 その内容はぜひ、本書をお読みいただければ幸いです。