ヤンゴンから約70キロのバゴー駅。列車だと現在は約2時間の旅だ。13世紀から16世紀にかけてバゴー王朝の首都として盛えた

時代と社会を映す舞台

 ミャンマーの駅に初めて思いを馳せたのは、今から5年前に読んだ一冊の本がきっかけだった。バンコク在住の米国人ジャーナリスト、エマ・ラーキンが2004年に書いた『ミャンマーという国への旅』。

 かつて、英領ビルマに警察官として滞在していた経験をもとに『ビルマの日々』を出版した英国人作家、ジョージ・オーウェルの足跡を約80年後にたどったルポルタージュだ。

 ある晩、ラーキンはオーウェルが赴任していたモーラミャインの街の対岸に位置するマルタバン駅にたどり着く。

 列車から降りて友人と合流するまでの描写からは、むせ返るようなエンジンオイルとキンマの匂いが立ちこめた暗闇や、ろうそくの灯りに浮かび上がる赤い袈裟姿の僧侶たち、そして政治や体制の話題を避け、息を殺すように暮らす人々の姿が、まるで映像のように鮮やかに浮かび、ミャンマー取材を始めるにあたって情報収集していた筆者の脳裏に焼きついた。

 決して長くはないシーンだったが、まだ見ぬ国の、在りし日の様子について想像を膨らませるには十分だった。

 その後、実際にミャンマーに通うようになってから、さまざまな駅を見た。

 ホームから線路ギリギリまで野菜市場が広がっていたり、ベンチに腰掛けた母親が子どもの髪を結ってあげていたり、祭りに出かけるために着飾った少女たちがうきうきと列車を待っていたり――。

 思えば、どの駅にも明るさと優しさが流れていた。それでも、あの時、ページをめくりながら思い浮かべたマルタバン駅の様子は、実際に見たかのように、今なお脳裏に鮮明に刻まれている。

 それはきっと、本来は暮らしに寄り添う行動の拠点であったり、新たな旅立ちの舞台であったりする駅が、時代背景や政治体制によっては、あれほどまでに不安感と閉塞感に満ちた空間にもなり得るのだということを、あのシーンによって思い知らされたためではないか。