脚気に倒れても「本を作り続けたい」、蔦重の最後のリクエスト
これまで何度となく、絵師や戯作者たちに頭を下げては、無茶な頼み事をしてきた蔦重。
筆者は新卒で出版社に入社したときに、編集長から「編集者は、各方面のプロに頭を下げながら、最終的には自分の思いどおりにやる仕事だ」と教わった。今回の『べらぼう』で蔦重の仕事ぶりをみて、まさにこのことだ、という思いを強くした。
しかし、今度ばかりは、絵師や戯作者たちのほうから、蔦重に「自分たちにしてほしいことは何かないか」と言い出した。蔦重が脚気(かっけ)の病を患ったからである。
脚気はビタミンB1不足で引き起こされる。江戸では玄米に代わって白米を食べる習慣が広がったことから、ビタミンB1が不足しやすく、脚気の病が流行していた。
ドラマでも説明されたように「江戸煩い(わずらい)」とも呼ばれた脚気は当時、死に至る病とされていた。それでも蔦重は養生するのではなく、出版人として人生を全うすることを望み、こう言った。
「一つ、望みがありまして……死んだあと、こう言われてえのでごぜえます。あいつは本を作り続けた、死の間際まで書を以て世を耕し続けたって」
そこで蔦重にお世話になった江戸のクリエーターたちが立ち上がった。みなが蔦重のリクエストに耳を傾けて、すぐに実践するという感動的な展開となる。
例えば、京伝には蔦重が「諸国巡りの話なんか書いてもらえねえですか?」と提案。こんなことを言っている。
「人の気性によって国が分かれてんのなんか、どうだ? 愚直な人の国、頑固もんの国。人の性分を書く時の山東京伝は古今無双だからよ」
ドラマでは、鼻歌まじりで書く京伝の姿があったが、実際には京伝の『和荘兵衛後日話(わそうびょうえごじつばなし)』がそんな話で、寛政9(1797)年の春のうちに蔦屋版として出版されることになる。
そして葛飾北斎には「狂歌集の景色の絵、頼んでいいか? 音が聞こえてきそうな波の絵とか。自然の音、人の音。春朗は音を頼りに描いていくといいと思うぜ」と提案。これは、浅草庵市人(あさくさあんいちんど)の序がある狂歌絵本『柳の糸』江の島の1図として、北斎の手腕が発揮されることになる。
この作品で北斎は、高くせり上がった形状の白波を描いている。そのことが、のちに北斎の代表作となる浮世絵『冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい) 神奈川沖浪裏』の名作誕生へとつながっていく。
そして、喜多川歌麿は新しい女絵として、話の中の女を生身のごとく描く場面が、ドラマでは描写された。この作品も実際に『山姥と金太郎・盃』という作品で残されている。
「山姥も歌麿が描けばこうなるってか……」と蔦重が感心すると、歌麿が作品の背景について、こう打ち明けた。
「こりゃ、おっかさんがタネなんだよ。で、金太郎が俺でさ。おっかさんとこうしたかったってのを、2人に託して描いてみようかと思って」
さらに「この先、見たかねえか。この2人がこのあと、どうなっていくのか」という歌麿。蔦重がすかさず「見てえ」とつぶやくと、こう言った。
「なら死ぬな」
蔦重が「見てえ」「読みてえ」と思う作品を描ければ、脚気も吹っ飛び、もっと長く生きてくれやしないか――。歌麿以外もそんな思いを抱いたのだろう。
驚くべきことに蔦重自身も「蔦唐丸」として作品を残している。その名も『身体開帳略縁起(しんたいかいちょうりゃくえんぎ)』で、絵は北尾重政が手がけた。蔦重自身がストーリーを手がけた黄表紙としては、2冊目となる。発刊されたのは寛政9(1797)年なので、脚気に苦しみながらも、蔦重はこの作品を完成させた。
まさに死の間際まで「書を以て世を耕し続けた」、そう胸を張れる人生を蔦重は送ることになった。
『身体開帳略縁起』(国立国会図書館蔵、https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100395101/1?ln=ja)最後のページには「蔦唐丸自作」と記されている