名古屋の版元から江戸の本屋へ、本居宣長の学問を広めた蔦重の眼力
ドラマでは、蔦重が「写楽」プロジェクトに協力した絵師や戯作者たちを耕書堂に集めて、打ち上げを行ったところ、翌朝に誰かが忘れた書物を発見。それが本居宣長の政治論『玉くしげ』だった。
関心を持った蔦重はいつものフットワークの軽さで、宣長のもとを訪問。渋る宣長を説得して、宣長の本を江戸で広めることについて了承を得ることができた。
実際の蔦重も宣長を訪ねていたようだ。自身への来訪者や手紙などを書き留めた宣長の『雅事要案(がじようあん)』に記されている。寛政7(1795)年3月25日の記述は、次のようなものだ。
「同廿五日來ル。一、江戸通油町蔦ヤ重三郎 來ル。右ハ千蔭春海ナトコンイノ書林也」
(江戸の通油町の蔦屋重三郎が来た。加藤千蔭と村田春海と懇意の本屋である)
加藤千蔭(かとう ちかげ)と村田春海(むらた はるみ)は、『万葉集』研究の大家として知られる国学者の賀茂真淵(かもの まぶち)の弟子にあたる。宣長も真淵を師事していたので、蔦重に会う気になったのだろうか。
蔦重が来訪した目的までは分からないが、当時、宣長の本は名古屋の永楽屋東四郎(えいらくや とうしろう)で出版されていた。書物問屋株も取得している蔦重としては、よりラインアップを充実させるべく、高名な宣長の本を耕書堂でも販売したいと考えたと思われる。
訪問後に、『源氏物語』を題材にした小説『手枕(たまくら)』、随想集の『玉勝間(たまがつま)』、注釈本の『出雲国造神寿後釈(いずものくにのみやつこかんよごとこうしゃく)』など、宣長が手がけた本を耕書堂で販売。ドラマであったように、蔦重経由で本居宣長の名が江戸で広められることになった。
ドラマでは、宣長が儒学を否定しているため、自身の著作物が江戸で販売されると幕府に問題視されるのでは、という危惧を抱いていたが、蔦重が松平定信の書簡を用意していたことで状況が打開される。定信が和学にも関心を持つことを示し、蔦重は宣長を納得させるという場面があった。
そんな説得をしたこと自体はフィクションだが、『源氏物語』を何度も書き写した定信ならば、のちに『源氏物語』の研究で知られる宣長と知り合う機会があれば、さぞ意気投合したことだろう。そんなイメージも膨らむ展開となった。
宣長との出会いから、蔦重は2年も経たずに死去する。最終回になって大物が登場したことには驚かされたが、実際に蔦重の生涯はそれだけ出会いに満ちていた。