山東京伝『吉原傾城新美人合自筆鏡』1784年(天明4年)。吉原の裏舞台を画題に山東京伝画、太田南畝序、朱楽菅江跋で描かれた、蔦重の人脈が発揮された作品
(鷹橋忍:ライター)
大河ドラマ『べらぼう』が最終回を迎え、蔦屋重三郎もこの世を去った。蔦重亡き後、蔦屋はどうなったのだろうか。
二代目・蔦屋重三郎 番頭の勇助
蔦屋重三郎は、寛政9年(1797)5月6日に病没した。
享年48だった。
津田健次郎が演じた曲亭馬琴が著した江戸文学の作者の評伝『近世物之本江戸作者部類(きんせいもののほんえどさくしゃぶるい)』には、「脚気を患ひて身まかりぬ」と記されており、蔦重の病は脚気だったと考えられている。
蔦重の遺骸は、正法寺(東京都台東区東浅草)に葬られた。
正法寺にある墓碑銘(左)と墓石(右、蔦重は上段左から3つめ)
蔦重の妻は、夫よりも長生きし、文政8年(1825)に亡くなっている。
蔦重の跡を継いだのは、耕書堂の番頭を務めていた「勇助」である。
勇助は養子に入り、「二代目・蔦屋重三郎」を称した。
『近世物之本江戸作者部類』の付録として収録される山東京山(古川雄大が演じた山東京伝の弟)の「蛙鳴秘抄(あめいひしょう)」には、「今のつた重、此時番頭をつとめ、後室を後見して家を治む。依而(よって)二代の家名を相続す」と記されており、さらに脚注十二には、「番頭上がりの婿養子勇助が二代目を継いだ」とある。
初代・蔦屋重三郎は無名の絵師であった若き日の葛飾北斎に目をつけていたが、二代目は彼を本格的に起用していく。
二代目・蔦屋重三郎は、狂歌絵本『東遊(あずまあそび)』、『東都名所一覧』(いずれも、編者は、江戸後期の狂歌師・浅草庵市人)など、北斎の作品を何作も刊行した。
『東遊』の中には、耕書堂の店先を描いた「絵草紙店」の図がある。
耕書堂は文化9年(1812)まで日本橋の通油町にあったが、翌文化10年(1813)に横山町一丁目に移転した。
その後も、小伝馬町二丁目、浅草並木町雷門内、浅草寺地中梅園院地借市右衛門店と、移転を繰り返していく。