白河小峰城 ばく13, CC BY-SA 2.1 JP, via Wikimedia Commons
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(鷹橋忍:ライター)

今回は、大河ドラマ『べらぼう』において、井上祐貴が演じる松平定信を取り上げたい。

11歳から治国の道を志す

 松平定信は宝暦8年(1758)に生まれ、翌年正月に賢丸(まさまる)と命名された(ここでは松平定信で統一)。

 寛延3年(1750)生まれの蔦重より8歳、渡辺謙が演じる享保4年(1719)生まれの田沼意次より39歳年下となる。

 八代将軍・徳川吉宗の次男・宗武(むねたけ)を祖とする「田安家」。

 四男・宗尹(むねただ)を祖とする「一橋家」。

 九代将軍・徳川家重(吉宗の長男)の次男・落合モトキが演じる重好(しげよし)を祖とする「清水家」の三家を御三卿というが、定信は田安家の初代当主・宗武の七男である。

 眞島秀和が演じる十代将軍・徳川家治(九代将軍・徳川家重の長男)と、生田斗真が演じる一橋治済(宗尹の子)と同様に、定信も吉宗の孫だった。

 母は、1歳上の兄・定国(六男)と同じく、側室の「とや」であるが、父の正室・花總まりが演じる宝蓮院に養育された。

 定信は、明和元年(1764)には田安家の家臣で儒学者の大塚孝綽(おおつかたかやす)から儒学と書道を学ぶようになり、明和5年(1768)には弓術を家臣の常見文左衛門に習いはじめるなど、文武を研鑚して育った。

 政治への野心は、早くから抱いていたようである。

 定信の自叙伝『宇下人言』には、11歳の頃から治国の道を知りたいと思い、このように治めようと、様々な工夫を書き留めたり図にしたことが記されている。

 また12歳の時に著した『自教鑑』をはじめ、生涯の著述は800冊にもおよぶという(桑名市博物館『松平定信小伝』)。

 明和8年(1771)6月4日、父・田安宗武が死去すると、宗武の五男・入江甚儀が演じる治察(はるあき)が、家督を継いだ。

 この時、田安家の男子は、治察と定信だけだった。

 治察よりも先に生まれた男子4人はすでに早世しており、定信の同母兄・定国は明和5年(1768)に伊予松山藩主・松平定静の養子に迎えられていたからだ。

 田安家の当主となった治察は、病がちで跡取りもなかったため、いずれは定信を養子に迎えるつもりだったと考えられている(桑名市博物館『松平定信小伝』)。

 何事もなければ、定信は田安家を継いでいたのかもしれない。

 ところが、安永3年(1774)3月、17歳の時、定信の運命が大きく変わる。

 11万石の白河藩の藩主である、久松松平家の当主・松平定邦(まつだいらさだくに)の養子に迎えられることとなったのだ。