白河藩主となる
松平定信像
松平定邦の養子となった定信は、養父母の孝養に尽力し、学問と武芸に精進した。
安永5年(1776)3月には、はじめて白河に赴いている。
同年5月には元服し、養父・松平定邦の娘である峯姫と結婚した。
峯姫は、定信より5歳年上だった。
夫婦仲はよかったとされるが、峯姫は天明元年(1781)11月に死去してしまう。定信は峯姫について、「才気が優れているうえに、よく夫に貞順した」と述懐している。
天明3年(1783)10月、定邦が隠居し、定信が松平家の家督を継ぎ、白河藩主の座に就いた。定信、26歳の時のことである。
定信は自ら衣食を質素にしたうえで、困窮者の救済、疫病予防のための灸の普及、目安箱の設置や学問所の設立など、真摯に幕政に取り組んだ。
この頃、火山の噴火、洪水、天候不順などによる大凶作から、「天明の飢饉」と称される大飢饉にみまわれ、餓死者が続出していた。
しかし、襲封して間もない定信の迅速な飢饉対策により、定信の領内では直接の餓死者は最低限に抑えられたという(『福島県立博物館編『定信と文晁 松平定信と周辺の画人たち 平成4年度第3回企画展図録』)。
飢饉対策の成功は、定信の名声を高め、江戸でも評判となったようである