老中解任後は白河藩主として藩政に尽力
定信は寛政5年(1793)年7月、依頼辞任の形をとって将軍補佐と老中職を解任された。
辞任の理由に関しては、定信が、閑院宮典仁親王に太上天皇の称号を贈ることに反対した「尊号事件」、一橋治済を大御所として迎えることに異を唱えた「大御所事件」など、様々な説が取り沙汰されているが、定信の緊縮政策が、庶民から幕府内部に至るまでの反発を招き、支持を失ったからともいわれている(桑名市博物館『松平定信小伝』)。
老中解任後の定信は、白河藩主として藩政に力を尽くした。
文化9年(1812)に家督を嫡子に譲ると、「楽翁」と号し、学問と著述に勤しみ、文政12年(1829)5月13日、72歳で没した。
もしも将軍となっていたら、どんな人生を歩んだのだろうか。
