田安家は当主不在に

 江戸城において、藩主の控えの部屋である「殿席」は、大名の家格を視覚化するもので、「溜間(たまりのま)」が最高の部屋とされる。

 溜間詰の大名は老中から幕政の説明を受けるなど、政治顧問的な役割も担っていたという。

 伊予松山藩主・松平定静は、定信の兄・定国を養子に迎えたことにより、殿席が帝鑑間(ていかんのま)から溜間に昇格している。

 白河藩主・松平定邦も溜間詰への昇格を望み、伊予松山藩主と同じく田安家から養子を迎えようと、田沼意次に働きかけた。

 田安家は反対したが、押し切られ、定信は定邦の養子に迎えられることとなったという(以上、安藤優一郎『田沼意次 汚名を着せられた改革者』)。

 こうして、定信は安永3年(1774)4月、松平定邦より贈られた「定信」に名を改め、5月には養家に移る儀式も行なった。

 だが、定信はその後も、しばらくの間、田安家に居住している。

 そんななか、同年8月に田安家の当主である兄・治察が、22歳で死去してしまう。

 治察には跡継ぎがおらず、田安家では定信の相続を願って、幕府に働きかけた。

 だが、幕府、すなわち田沼政権は却下した。

 もし、この時、定信が田安家の当主となっていたら、十一代将軍の座に就くこともありえたという。そのせいか、定信は田沼意次を深く憎んでいた。

 定信は八丁堀にある白河藩の上屋敷に移り、田安家はしばらくの間、当主不在の状態に陥ることになる。