異例の老中首座就任
定信は、養父・松平定邦の願いである溜間詰への昇格を果たすため、参勤交代で江戸に在勤している際に、意次の屋敷に頻繁に通い、意次の用人たちに金品を贈った(安藤優一郎『田沼意次 汚名を着せられた改革者』)。
その結果、天明5年(1785)12月には、幕府から念願の溜間詰を命じられた。これは定信の幕政進出のスタートとなる。
天明6年(1786)8月25日には十代将軍・徳川家治が死去した。
後ろ盾を失った老中・田沼意次は同年8月27日に病気を理由に依頼免職となり、閏10月に2万石を没収されて失脚した。
翌天明7年(1787)4月には、城桧吏が演じる一橋家の家斉(一橋治済の子)が、十一代将軍の座に就いている。
幕政への参画を狙う定信は、従兄弟で、現将軍の実父である一橋治済と手を組み、御三家の推挙も受け、老中の座を目指した。
一橋治済と御三家に擁立された定信は、一時は難航したものの、同年6月19日、30歳で老中首座(老中の最上位)に就き、奥勤めも兼務することとなった。天明8年(1788)3月には、将軍補佐に任命されている。
定信の老中首座就任は、異例ずくめだった。
老中は、特定の家から何代にもわたって就任するケースが多く見られ、定信の久松松平家のように、老中はもちろんのこと幕府の重職にも就いた者がいない家から老中が出る。まずこれが異例である。
また、定信のように幕府の役職に就いた経験もないまま、いきなり老中に、しかも首座に就任するのも、極めて異例だった。
しかも、江戸時代を通じて、老中の就任時の平均年齢は45歳であり、30歳での定信の就任はかなり若い。
定信がこのような異例の抜擢を受けたのは、本人の能力もあるが、一橋治済と御三家の後ろ盾があったからだという(以上、藤田覚『松平定信 政治改革に挑んだ老中』)。
老中首座に昇りつめた定信は、「寛政の改革」に乗り出していく。
質素倹約、文武の奨励、綱紀の粛正を打ち出した寛政の改革により、出版統制が強化された。
蔦屋重三郎も取り締まりの対象となり、出版界の多くのジャンルは冬の時代を迎えることになる。