異国船への対応であらゆる可能性を考えていた幕府

 本音を言えば、定信はドラマのように相手の要求はすべてはねつけたかった。だが、あらゆるリスクを踏まえたうえで結論を出すのが、定信のやり方だった。

 もし、「漂流民を届けに江戸に入りたい」「今後は通商を行いたい」という相手の要求をすべて突っぱねれば、戦争にもなりかねない。とはいえ、江戸の手薄な警備を考えれば、江戸には絶対に入れるわけにはいかない。自伝『宇下人言』などによると、定信はそう考えたようだ。

 ラクスマン側に「たとえ漂流船であっても、異国の船は海上で打ち払う」という国法をまず示し、そのうえで今回については「国法も知らなかったであろうから帰国を許可する」と伝え、さらに「通商したければ長崎であれば考えてもよい」という譲歩を見せることにした。

 ラクスマンに渡した「異国人に被諭御国法書(いこくじんにさとされおくにほうしょ)」にその旨が書かれているが、何とか江戸に来るのだけは避けたい、という態度を出さずに、あたかも日本側が特別扱いをしているかのような書きぶりに、定信の苦心が見て取れる。

 方針を決めた定信は、目付の石川忠房と村上大学を「宣諭使(せんゆし)」に任命。蝦夷地に派遣し、松前の地でラクスマン側と交渉を行った。その結果、漂流者2名を引き取り、「おろしや国の船壱艘長崎に至るためのしるしの事」と題した長崎への入港許可証(信牌)を、ラクスマンに交付している。

(上記3点)大槻磐水、山村才助著『ヲロシヤ船渡来一件』(早稲田大学・古典籍総合データベース: https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko08/bunko08_a0064/index.html

 北海道から長崎への海路を考えると「これでいったんは帰国してくれるかもしれない」という期待があったことはもちろんだが、あらゆる可能性を考えるのが、定信である。「ラクスマンがそれでも江戸にこだわった場合」や「すぐさま長崎に向かった場合」についても、対応を想定し、できる限りの準備をしていたようだ。

 結果として、ラクスマンは入港許可証を入手すると、そのまま長崎へは向かわず、オホーツクに帰港している。定信の思惑通りになり、関係者はほっと胸をなでおろしたことだろう。

 だが、それから約15年後の文化元(1804)年、このときにラクスマンに交付された入港許可証を持って、ロシアの外交官ニコライ・レザノフが長崎にやってくる。

 そこで一悶着あったことから、定信のラクスマンへの対応は「その場しのぎだった」と批判されることもある。だが、当時の手探りの状況を踏まえれば、精いっぱいの対応をしたといえるのではないだろうか。

 ちなみに、冒頭のペリーの黒船来航時には、庶民は慌てふためいたものの、幕府側は1年前から情報をキャッチ。何隻の船で来るかまでしっかりと把握しており、開国を迫るであろうアメリカにどう対処するべきか、入念に準備を進めていた。だからこそ、全権を担った林復斎(はやし ふくさい)らがペリーに対して、毅然とした対応をとることができた。

 ラクスマンの来航以降、幕府が異国船の対応について協議を重ねてきたことが、ペリー来航時に発揮されることになった。