マシュー・ペリー

(町田 明広:歴史学者)

◉欧米列強と幕末日本ー日本はどのようにグローバル化したのか①

ペリー来航とその目的

 日本とアメリカの最初の大きな接触は、天保8年(1837)に起こったモリソン号事件であった。浦賀に来航したアメリカの商船モリソン号に対して、日本人漂流漁民の送還が目的であった。しかし、浦賀奉行所が外国船打払令に従い、砲撃を加えて退去させたのだ。

 その後、弘化3年(1846)に東インド艦隊司令官ビッドルが浦賀に来航し、通商を求めたが拒否された。幕府は外国船に対して、例外なく鎖国を祖法と強弁し、長崎回航を求めていた。ペリー以前は、どの国も軋轢を回避し指示に従って退帆していたが、ペリーは断固たる信念でこれを拒否することを決めていた。

 そもそも、ペリーはなぜ日本にやって来たのであろうか。当時のアメリカは、西部への領土的野心を露わにし、カリフォルニアの空前のゴールドラッシュもあいまって、領土が西海岸にまで達していた。さらに、アメリカでは産業革命が進展しており、特に綿製品の輸出先として、太平洋の先にある大市場の清(中国)への進出を目論んでいた。望厦条約の締結も相まって、その中継基地として、日本の港は必要不可欠であったのだ。

川の砂鉱床で採掘に従事する金採掘者

 また、最盛期を迎えていた捕鯨産業は、北太平洋から日本沿岸に漁場を求めており、その側面からも薪水や食料の補給が大きな課題となっていた。加えて、操業中に頻発する漂流民の安全確保も、極めて深刻な問題であった。日本は貿易対象国として、当初は重きを置かれていなかったものの、優良な漁場に位置することから、日本の存在はアメリカのみならず、世界的に注目を集めていたのだ。