(町田 明広:歴史学者)
初期鎖国令の実態
寛永16年(1639)7月、3代将軍・徳川家光によって、「寛永鎖国令」が発布され、これ以降はポルトガル船の渡航を厳禁した。そして、万が一再来航した場合には、船は破壊し乗組員は処刑することを命じた。
承応3年(1654)5月、4代将軍・徳川家綱によって、「承応鎖国令」が発令され、「寛永鎖国令」が修正された。南蛮船を追い返すことを要求しているものの、攻撃されない場合は、こちらからも攻撃しないこと、追跡は不要であることを命じた。
いずれも、外国船を追い払うことには違いないが、「寛永鎖国令」は無二念打払いを、「承応鎖国令」は襲来打払いを命じていた。
今回は、「寛永鎖国令」の発令以降、国是(国家の方針)である鎖国がどのような変遷をたどっていったのか、鎖国政策が動揺を始める松平定信(1759~1829)の時代を中心に、詳しく見ていきたい。
松平定信の「寛政度異国船取扱指針」
老中松平定信による寛政の改革が進行していた寛政3年(1791)9月、幕府は突如として「寛政度異国船取扱指針」(異国漂流船取計方之儀御書付)を布告した。その指針には、外国船の来航・漂着時の扱いが詳細に記載されており、臨機応変な処置を認めながらも、幕府に伺いを立てることを原則としていた。
内容的には、承応鎖国令と同レベルの内容であり、鎖国を順守していると見なせる。ここでも、不必要な打ち払いは禁止しており、従来の鎖国政策の枠内に踏み止まった。一方で、この時期、日本近海に出没を始めた外国船への憂慮と配慮がうかがえる。この段階に至り、鎖国政策が動揺し始めたことを意味しているのだ。
具体的には、外国船が漂着した場合、保護してまず船具は取り上げた上で長崎へ送るべきか否か、幕府に伺いを立てること。外国船を発見した場合、速やかに警備態勢を整えた上で、大騒ぎせずに談判・見分の役人を外国船に派遣すること。もし、相手が役人を拒むなら、人も船も打ち砕くこともやむを得ない。その時は相手船に乗り移り、大砲や火矢等の使用も許可するので、素早く斬り捨てるか捕縛すること。
そして、談判が成立するか見分を拒まない場合は、なるべく穏便に取り計らい、船をつながせた上で乗組員は上陸させ、番人に見張らせて、勝手に船に戻らないようにしておき、幕府に伺いを立てること、といった項目が並べられている。
漂流船とその他何らかの目的を持った外国船を区別し、臨機の処置も認めており、相手の出方次第では打ち払いも許容した。それにしても、微に入り細に入り、極めて詳細な指針である。それほど、この時期に外国船が頻繁に日本に接近を始めたため、各地から幕府への問い合わせが急増しており、それに依拠した布告であったのだ。