(町田 明広:歴史学者)
鎖国から「鎖国」への変化
江戸時代の対外政策と言えば、鎖国を思い起こされるだろう。一方で、ここ最近言われるようになったのは、実際には四つの口(松前・対馬・長崎・琉球)が世界に向かって開いており、鎖国とは言えないとする言説である。
この鎖国という歴史用語が教科書から消えるのではと、まことしやかに言われてきたが、最近の教科書では、鎖国を「鎖国」とわざわざ括弧付で記述している。例えば、帝国書院のホームページでは、「「鎖国」という言葉がもつ、「国を鎖す」という受動的・否定的なイメージと、江戸時代の外交・貿易の実態とは違うという点からも、「 」を付けています」と説明している。
そもそも、「ペリーが来て開国」と記載している教科書で、開国と対になる鎖国の開始に言及がないのはいかがかと思うが、取り敢えず、括弧付ではあるものの、鎖国は生き残った。筆者は、幕末期に同時代人が普通に使用していた鎖国は、括弧がなくても良いと考えている。確かに、四つの口は存在していたが、実際の日本人でそれを意識できた人間は、ほとんどいないと言えるレベルであり、事実上、鎖国であったからだ。
それはさておき、江戸時代の鎖国は200年超の期間存続していたが、その内容は意外にも時代に即して変化を遂げている。しかし、その実態については、不案内の読者も多いのではなかろうか。今回は、その成立からペリー来航に至る直前までの間に、鎖国の実態はどのような変転を経ていたのか、その背景にも十分に留意しながら、鎖国の軌跡をたどってみよう。