松陰神社(萩市)

(町田 明広:歴史学者)

◉吉田松陰の対外思想ー長州藩を左右した世界観の彷徨①
◉吉田松陰の対外思想ー長州藩を左右した世界観の彷徨②
◉吉田松陰の対外思想ー長州藩を左右した世界観の彷徨③

松陰の積極的開国論

 松陰は、下田渡海事件の前後に即時攘夷から未来攘夷に転換した。今回は最初に、その後の松陰の対外思想の変転について、積極的開国論、未来攘夷を声高に主張した段階から見ていこう。

 下田渡海事件後、萩に戻った松陰は、安政の大獄後に長州藩の藩是(藩の基本方針)となった、「航海遠略策」(長州藩士長井雅楽が提唱した、通商条約の容認を前提に日本の対外進出を推進する政策論)にもつながる意見を述べている。

 安政5年(1858)4月に著した「対策一道」(『吉田松陰全集』)によると、松陰は、国家百年の大計を立て、雄大な計略を用いて夷狄を御することを望めば、開国通商でなければならないとの航海通市策(海外に乗り出して積極的に貿易すること)を訴える。当時の幕閣と大差のない、積極的開国論を主張したのだ。

 そして、もしも「封関鎖国」(開国せず鎖国を堅守)策を採れば、座して敵を待つことになり、国威はくじかれ国力は衰えて、滅びることを待つのみであると警鐘を鳴らす。松陰は続けて、航海通市策は雄大な計略の素となり、実は我が国の祖法である。一方で、鎖国政策は一時しのぎの安楽をむさぼる行為であり、末代までの悪政であると断言し、通商条約を容認する。

 このように、松陰はむしろ積極的に通商を容認し、その利益によって富国強兵を目指し、その先には、夷狄(外国)征服を念頭に置いていた。これはまさに、未来攘夷そのものである。

 しかし、これはあくまでも皇国(日本)として挙国一致で行わなければならず、松陰の中では、すでに藩とか幕府とかのレベルは超えていた。現行の幕藩体制は維持しながらも、朝廷・幕府・藩が一致協力した未来攘夷の実現を求めたのだ。