吉田松陰と金子重輔像(下田市) 写真/フォトライブラリー

(町田 明広:歴史学者)

◉吉田松陰の対外思想ー長州藩を左右した世界観の彷徨①
◉吉田松陰の対外思想ー長州藩を左右した世界観の彷徨②

即時攘夷から未来攘夷に転身した松陰

 吉田松陰は、ペリー再来航時(1854)に「墨夷膺懲」(夷狄であるアメリカを征伐してこらしめること)を志し、ペリーを刺殺することを計画した。つまり、即時攘夷を実行することを決心していたのだ。

 にもかかわらず、松陰はそれを思い止まり、即時攘夷から未来攘夷に転換し、下田渡海事件を起こした。転換した理由として、通商は回避したものの、日米和親条約が締結された事実があった。松陰がペリーに危害を加えることは、国際問題になり兼ねない行為であることを、自覚していた可能性は十分にあろう。

 しかし、松陰が著した「幽囚録」にもある通り、即時攘夷から未来攘夷への方針転換の最大の理由は、彼の師である佐久間象山の言説に触れたことによる。象山によって、松陰の思考は柔軟性を呼び覚まし、現実的な国際感覚を取り戻したのであろう。松陰にとって、象山の存在は極めて大きいものであったのだ。

松陰に大きな影響を与えた佐久間象山

佐久間象山

 佐久間象山は、松代藩士で兵学者・朱子学者・蘭学者・思想家として広く知られ、江戸で塾を開いていた。松陰をはじめ、幕末維新期に活躍した勝海舟、河井継之助、加藤弘之、山本覚馬、坂本龍馬などが門下生である。

 元治元年(1864)には、幕府から海陸備向掛手付雇を命じられ、幕府の臨時雇いとして京都で活躍した。象山は二条城で将軍家茂に謁見するなど、中川宮(朝彦親王)、山階宮晃親王、関白二条斉敬、一橋慶喜などとも面会を繰り返すなど、幅広い人脈を形成していたのだ。しかし、象山は同年7月に、三条木屋町で河上彦斎らとされる一団に暗殺されてしまう。

 その象山と松陰との出会いは、嘉永4年(1851)にまでさかのぼる。それ以降、松陰は象山を最大の師として畏敬の念を持ち続けており、両者の交友は濃密に継続していた。象山は、松陰の密航を支持しており、そのために下田渡海事件に連座して投獄されている。これなど、その段階で松陰と最も気脈が通じていたのが象山であった証拠ではなかろうか。