松陰神社にある木戸孝允寄進の鳥居と吉田松陰の墓(世田谷区) 写真/アフロ

(町田 明広:歴史学者)

◉吉田松陰の対外思想ー長州藩を左右した世界観の彷徨①

長州藩の対外思想(認識)の系譜

 吉田松陰の対外思想は、松陰刑死後も長州藩の方向性に多大な影響を与え続けた。と言うのも、文久期(1861~1863)に藩政の中枢を牛耳って即時攘夷を実践したのは、松下村塾で直接松陰から教えを受けた塾生が中心であったからだ。

久坂玄瑞

 その筆頭と言えるのが、久坂玄瑞であろう。久坂は高杉晋作ともに松門の双璧と言われ、そこに吉田稔麿、入江九一を加えて四天王と称された。また、久坂らが兄のように慕った桂小五郎(木戸孝允)は、嘉永2年(1849)に藩校明倫館で山鹿流兵学教授であった松陰から兵学を学んでいる。桂は松下村塾の門下生ではなかったが、終生松陰のみを師として仰いだのだ。

周布政之助の肖像

 さらに、藩要路である周布政之助は、松陰のよき理解者の1人であった。つまり、松陰の影響力は、その死後も持続しており、弟子たちに留まらず、その思想的系譜は広く藩内で継承されており、対外思想も当然のことながらそこに含まれた。

松陰を形作る皇国思想と陽明学

 松陰の対外思想を語るには、下田渡海事件を避けては通れない。下田渡海事件とは、嘉永7年(1854)3月、日米和親条約の締結後も下田に留まるペリーに対し、海外渡航を直訴するためにポーハタン号へ赴いたものの、拒絶された一連の経緯のことである。松陰は自首し、その後、国禁を犯したとして江戸伝馬町の牢屋につながれてしまったことは、前回紹介した。では、松陰がなぜ渡航を企てるに至ったのか、その対外思想の変遷を考えてみよう。

 そもそも、長州藩は長い海岸線を持ち、交通の要衝となる下関が支藩である清末藩の支配下にあった。また、長州藩は江戸時代を通じて、朝鮮とのパイプ役であった対馬藩との交流が深かった。このような地理的な条件は、必ずしも松陰でなくとも、長州藩に生まれた者であれば多かれ少なかれ、対外危機を敏感に感じ取ることができたのだ。特に松陰は、山鹿流兵学師範であり、国防問題への関心は人並み以上であった。