(町田 明広:歴史学者)
先行する長州藩・吉田松陰のイメージ
幕末維新史の主役と言えば、長州藩を思い浮かべる読者は多いのではなかろうか。そのイメージと言えば、尊王攘夷運動の旗頭であり、下関で攘夷戦争を実行するなど、即時攘夷を牽引し続け、最後に倒幕を成し遂げた西国雄藩の代表に落ち着こう。
また、吉田松陰は長州藩を代表する過激な尊王攘夷家であり、松下村塾を主宰して多くの尊王志士を育て上げた。しかし、大老井伊直弼による安政の大獄に巻き込まれ、刑死した悲劇のヒーローとして、広く知られた偉人であろう。
しかし、歴史を紐解くと、長州藩、そして吉田松陰は最初から最後まで即時攘夷に一辺倒であったわけではない。未来攘夷と即時攘夷を行ったり来たり、彷徨しながら即時攘夷に収斂したのだが、その間の経緯は必ずしも知られていないのではないか。今回は4回にわたって、吉田松陰の対外思想を中心に据えながら、長州藩がいかに松陰の世界観によって影響を受けたのか、その実相に迫ってみたい。
吉田松陰の生い立ちと少年時代
最初に、吉田松陰(1830~59)とは一体どのような人物であったのか、やや詳しく説明したい。文政13年8月4日、無給通(むきゅうどおり)23石取の杉百合之助の次男として生まれた。志士、思想家、教育者であり、幼名は大次郎・寅次郎・寅之助、名は矩方、号は二十一回猛士であった。
幼くして吉田家の養子となったが、同家は大組という上級藩士であり、禄高は40石、山鹿流兵学師範の家であった。この養子縁組が、松陰の運命を大きく変えたのだ。
松陰は叔父の玉木文之進や兵学者の山田宇右衛門、山田亦介から兵学に関する教育を受けた。天保9年(1838)、9歳の時に藩校明倫館で山鹿流兵学の講義を初めて行ったが、以降は毎年一定期間、明倫館で教授することになった。
天保11年(1840)、11歳の時に藩主毛利敬親の前で「武教全書」を講義し、そのあまりの巧みさに藩主を驚かせた。さらに、弘化元年(1844)、15歳の時に再び藩主に講義する機会に恵まれたが、激賞されて褒賞を下賜される栄誉に浴した。まさに、天才少年である。