(町田 明広:歴史学者)
幕末維新史における特異な存在
幕末維新をいつからいつまでとするのかは、難しい問題である。仮に、嘉永6年(1853)のペリー来航から明治4年(1871)の廃藩置県とした場合、その期間を通じて活躍した人物を挙げることは至難の業であろう。明治期を除いて、ペリー来航から鳥羽伏見の戦いに限定しても、
そのような中で、ほぼその全期間を通じてキーマンであった人物の一人は、松平春嶽(文政11年9月2日(1828年10月10日)~明治23年(1890年6月2日)ではなかろうか。今回は、その春嶽にフォーカスし、彼が成し遂げた事績を取り上げるとともに、それを可能にした徳川一門としての華麗なる血統の秘密に迫ってみたい。
なお、春嶽は号であり諱は慶永(よしなが)であるが、今回は春嶽で通したい。
生い立ちと藩政改革
松平春嶽は、御三卿の一つである田安家の徳川斉匡(なりまさ)の8男として生まれた。
御三卿とは、江戸時代中期に将軍家より分立した徳川姓の3家を指している。その3家とは、8代将軍吉宗の2男宗武と4男宗尹をそれぞれ祖とする田安家・一橋家、9代将軍家重の2男重好を祖とする清水家である。所領は各10万石で、将軍に継嗣のない時は徳川宗家を相続することができた。つまり、春嶽も将軍候補になることが可能な存在であったのだ。
天保9年(1838)、11歳の時に越前松平家を継ぎ、第16代藩主となった。以後20年間のうちに、中根雪江、鈴木主税、橋本左内らを登用し、藩政改革にまい進した。例えば、西洋砲術や銃隊の訓練を実施するなど軍事力を強化した。
また、藩校明道館を設立するとともに、洋書習学所を併設して洋学教育にも力を入れた。その流れの中で、種痘の導入なども行うなど、実際に洋学の成果を民政に取り入れたのだ。まさに、春嶽は名君ぶりを遺憾なく発揮している。