吉田松陰は、ペリー再来航時(1854)に「墨夷膺懲」(夷狄であるアメリカを征伐してこらしめること)を志し、ペリーを刺殺することを計画した。つまり、即時攘夷を実行することを決心していたのだ。 にもかかわらず、松陰はそれを思い止まり、即時攘夷から未来攘夷に転換し、下田渡海事件を起こした。転換した理由として、通商は回避したものの、日米和親条約が締結された事実があった。松陰がペリーに危害を加えることは、国際問題になり兼ねない行為であることを、自覚していた可能性は十分にあろう。 しかし、松陰が著した「幽囚録」にもある通り、即時攘夷から未来攘夷への方針転換の最大の理由は、彼の師である佐久間象山の言説に触れ