松陰は、下田渡海事件の前後に即時攘夷から未来攘夷に転換した。今回は最初に、その後の松陰の対外思想の変転について、積極的開国論、未来攘夷を声高に主張した段階から見ていこう。 下田渡海事件後、萩に戻った松陰は、安政の大獄後に長州藩の藩是(藩の基本方針)となった、「航海遠略策」(長州藩士長井雅楽が提唱した、通商条約の容認を前提に日本の対外進出を推進する政策論)にもつながる意見を述べている。 安政5年(1858)4月に著した「対策一道」(『吉田松陰全集』)によると、松陰は、国家百年の大計を立て、雄大な計略を用いて夷狄を御することを望めば、開国通商でなければならないとの航海通市策(海外に乗り出して積極的
吉田松陰が望んでいた「未来攘夷」とは?裏目に出た至誠とその先の悲劇
幕末維新史探訪2023(21)吉田松陰の対外思想ー長州藩を左右した世界観の彷徨④
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