新潟でもできるんじゃないか

「新潟のスケート人口をもっと増やしたいですね。こちらの人に聞くと、新潟県はスポーツに力を入れているけれど、サッカーやバスケットボールなんだそうですね。一方でウインタースポーツは少し苦しんでいる。今はクラブの子しか教えていないけれど、新潟の子たちも教えて、スケートを普及させたいです」

 そしてこう続ける。

「岳斗先生は、選手のときは仙台で長久保(裕)先生に教わっていたじゃないですか。長久保先生が指導者として仙台に移ってから、岳斗先生だけじゃなく、たくさんスケーターが育ちました」

 長久保氏は千葉県新松戸で指導を行っていたが1988年、仙台市のリンクに移り、数多くのスケーターを育てた。1988年の長野オリンピックには田村をはじめ本田武史、荒川静香、荒井万里絵と4名の教え子が出場している。また鈴木明子や本郷理華の指導でも知られている。フィギュアスケートの普及にも大きく寄与した。

「仙台がそうだったように、新潟でもできるんじゃないか、という思いもあります。もっと盛んになれば、リンクがもう1つできるかもしれないですしね」

 新潟そして国内にとどまらず、海外にも視野を向ける。アメリカ合宿で教えた選手のうち2人が新潟を訪れて指導を受けたという。

「そのほか、合宿と関係なく、オーストラリアからも1人来ました。所属コーチ以外は出入りできないとか制限がけっこうあるリンクが少なくない中で、ここはよその選手も自由に入れるし、スケートを広げていくにはいい環境ですね」

 そして笑う。

「名古屋から出たことがなかったから、名古屋の印象が強いじゃないですか。だからみんなにびっくりされるんですけど、別にどこに行っても私は私だから。成功とか失敗とか考えるのではなく、まずはやってみようという感じかな」

 フィギュアスケートへの変わらぬ情熱とともに幕を開けた新たな地でのスタートにも、挑戦を挑戦と感じさせない軽やかさがあった。(後編に続く)