文=松原孝臣 撮影=積紫乃

引退会見も「らしい」

 今も昔も、向ける眼差しは変わらない。

「らしい会見だったなと思いました」

 穏やかな、優しい笑顔で語るのは樋口美穂子だ。

 宇野昌磨がフィギュアスケーターとして本格的にスタートを切ったのは樋口が指導者として籍を置いていたグランプリ東海クラブに入ったとき。以来、2019年に宇野がグランプリ東海クラブを卒業するまで一貫して、樋口は宇野の指導にあたってきた。競技用のプログラムの振り付けもすべて樋口自身が手がけ、大会に帯同し、宇野の喜怒哀楽をみつめてきた。その後も折々に言葉を交わすなど途切れることなく交流は続いている。

 長年、樋口が見守ってきた宇野は、5月に現役からの引退を発表。その後、開いた記者会見での様子を「らしい」と樋口は表す。

 引退そのものについては、発表以前から把握していたという。

「世界選手権の1カ月ぐらい前だったかな。報告をいただきました」

 と、樋口は振り返る。

「昌磨が決めることだから、何か思ったというよりは、ほんとうに素直に受け取った感じでした」

 ある意味、予感するものはあったかもしれない。2022-2023シーズンの全日本選手権後に宇野と偶然出会った際、「今、楽しい?」と言葉をかけたという。

「演技を見て、気になっていたのでかけました」

 葛藤を感じ取っていたからにほかならなかった。

 それでも同シーズンを世界選手権連覇とともに全うし、2023-2024シーズンを駆け抜けた。

その間には、宇野の決断を予期させるやりとりもあった。グランプリファイナルのときだ。同時に行われるジュニアグランプリファイナルに指導する上薗恋奈が進出していたこともあって、樋口も開催地に赴いた。

「飛行機などで話をする機会がありました。NHK杯のあとだったので、その話をすると『僕はいいんですけど……』みたいなことを言っていましたね」

 そして宇野はこう語っていたという。

「『自分的にはちょっと休みたい』と言っていて、『1年休んだりすると、オリンピックに出るのもなかなか難しいよ』と話しました。『分かってるんですよ。今シーズンで終わりだと思って、残り3カ月頑張ろうと思っています』といった話をしていました」

 シーズンが進む中にあって、葛藤は常にあったことを示唆している。

 葛藤がありつつもシーズンの各大会で見せる宇野の演技に、樋口はこのような印象を抱いていた。