やなせたかしの詩集のために出版部を立ち上げる
信太郎は、当時、書きためていた詩を詩集として自費出版しようと考えていた柳瀬嵩から、その原稿を見せられた。
柳瀬嵩の詩を読んだ信太郎は、「自費出版ではなくて、うちで出版しましょう」と持ちかけた(梯久美子『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』)。
そして、「詩集は売れませんよ」という柳瀬嵩の言葉を気にもせず、社員の反対を押し切って出版部を立ち上げている。
そうして、昭和41年(1966)9月、柳瀬嵩の詩集『愛する歌』が刊行された。詩人やなせたかしの誕生である。
予想に反して詩集は売れ、第5集まで刊行された。
柳瀬嵩によれば、総計10万部は売れたという(やなせたかし『明日をひらく言葉』)。
このように柳瀬嵩の詩集を出すためにはじまった山梨シルクセンター出版部だが、その後も谷川俊太郎、サトウハチロー、川崎洋などの詩集を続々と刊行するなど、出版活動を継続していく。
山梨シルクセンター自体の業績も好調で、昭和45年(1970)7月の決算で、売り上げがはじめて10億円の大台に乗ったという(上前淳一郎『サンリオの奇跡 夢を追う男たち』)。
昭和48年(1973)4月には、柳瀬嵩が提案し、かつ編集長を務めた『詩とメルヘン』が創刊された。
『詩とメルヘン』は、読者が投稿した詩に、プロの画家やイラストレーターが絵を添えるという画期的な雑誌である(創刊号の詩は、柳瀬嵩が同人誌などから選んだ作品を掲載)。
信太郎も柳瀬嵩も売れないと思っていたが、創刊号は売れに売れた。
雑誌にもかかわらず、五刷までいったのだ。
『詩とメルヘン』は月刊誌となり、柳瀬嵩は休刊となるまで30年も編集長を続けることになる。