役人から山梨シルクセンターの社長へ

 甲府に戻ってしばらく静養した後、信太郎は再び甘味料や石鹸などを作って、闇市で売り、またもや大儲けした。

 その後、山梨県庁に勤めた。だが、役人生活に飽き足らなくなり、すでに妻子もあったが、退職して独立を果たす。

 昭和35年(1960)、県の外郭団体だった山梨シルクセンターを県から切り離して株式会社とし、信太郎が社長に就任したのだ。

 信太郎、33歳の年のことである。

 資本金は百万円、社名は「山梨シルクセンター」を、そのまま使った。「サンリオ」に社名変更するのは、昭和48年(1973)のことである。

 山梨シルクセンターは、その名の通り、山梨県の特産品の一つである絹製品を、国内外に販売斡旋するために発足された外郭団体だった。

 他にも、ワイン、水晶など特産品を扱う各センターが存在していたが、信太郎が一番興味をもったのが、この山梨シルクセンターだった。

 信太郎は、山梨シルクセンターにいた渡辺栄という信太郎より6歳年下男性と、信太郎の実弟、女性の事務員とともに、日本橋小舟町に事務所を構えている。

 やがてここに、後にサンリオ常務となる大久保利彦という、大学を卒業したばかりの若者が加わった。

 ところが、取引先のバイヤーに不渡り手形を掴まされて、500万円もの債務を負い、事務所の賃貸料も払えなくなってしまう。

 信太郎らは日本橋小舟町を後にして、秋葉原の金物屋の軒先を借り、事務所とする。

 事務所は三畳ほどのスペースで、社員5人が座るのがやっとだったという(上前淳一郎『サンリオの奇跡 夢を追う男たち』)。