手塚治虫(1981年) 写真/Françoise Huguier /Agence Vu/アフロ
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(鷹橋忍:ライター)

NHK連続テレビ小説『あんぱん』が終わり、「あんぱんロス」に陥っている方も少なくないようだ。そこで今回は、ドラマの中でも印象的だった眞栄田郷敦が演じた手嶌治虫のモデルとされる手塚治虫と、やなせたかし(ここでは本名の柳瀬嵩で表記)との関わりを取り上げたい。

マンガの神様、手塚治虫

 手塚治虫は、昭和3年(1928)11月3日、大阪府豊中市で生まれた。大正8年(1919)2月6日生まれの柳瀬嵩より、9歳年下となる。

 父は手塚粲(ゆたか)といい、住友金属に勤めていた。

 母は文子といい、軍人の娘で、服部半蔵の子孫だったという(松永伍一『母たちの肖像』)。

 手塚治虫は二人の長男で、治(おさむ)と名付けられた。手塚治虫はペンネームである(ここでは手塚治虫の表記で統一)。

 父・粲はマンガ好きで、『のらくろ』や『冒険ダン吉』を買ってきては、読み終わると手塚治虫に与えたという。

 手塚治虫は父を、「日本で一番初めに、電車の中でマンガを読んだ人間だと思う」と称している(以上、松永伍一『母たちの肖像』)。

 母・文子は、手塚治虫にマンガを好きなだけ読ませるだけでなく、読み聞かせもした。キャラクターによって声色を変えるなど、迫真の読み聞かせだったという(手塚治虫『ぼくのマンガ人生』)。

 昭和8年(1933)、手塚治虫が5歳の時、兵庫県川辺郡小浜村(1954年から宝塚市)に居を移した。

 手塚治虫は、漫画と昆虫採集に熱中した少年だったという。

 やがて、医学の道を志し、昭和20年(1945)、大阪大学附属医学専門部に入学。昭和36年(1961)に医学博士の学位を取得するが、手塚治虫は最もなりたいと望んだ、マンガ家の道を歩んでいく。

 昭和21年(1946)、四コマ漫画『マアチャンの日記帳』でデビュー。昭和22年(1947)、大阪の出版社から刊行した長編マンガ『新宝島』(酒井七馬原作)が、40万部を売り尽くす大ベストセラーとなった。

 昭和23年(1948)には、ドラマの柳井嵩が手嶌治虫の作品の中で一番に好きだと言った『ロスト・ワールド』を刊行している。

 昭和25年(1950)には『ジャングル大帝』、昭和26年(1951)には、『アトム大使』の連載が始まった。この年、大学を卒業している。

 翌昭和27年(1952)には『アトム大使』の登場人物の一人であったロボット少年アトムを主人公とするマンガの長期連載が開始された。手塚治虫の代表作『鉄腕アトム』である。

 この年、手塚治虫は医師の国家試験に合格した。また、東京に仕事の場を移し、新宿区四谷に下宿している。

 以後も、数え切れないほどの作品を発表し続け、昭和36年(1961)、手塚治虫プロダクション動画部が設立され、翌昭和37年(1962)、「株式会社虫プロダクション」として正式にスタートした。

 昭和38年(1963)には、日本初の長編テレビ用連続アニメとして、『鉄腕アトム』の放映が開始される。アニメ『鉄腕アトム』は爆発的な人気を呼び、最高視聴率は40.7%を記録。アニメブームの先駆となった。

 この「マンガの神様」とも称される手塚治虫と、柳瀬嵩は43歳の時、仕事をともにすることとなる。