神様と毛虫
昭和42年(1967)10月のある日、柳瀬嵩は電話で突然に手塚治虫から「長編アニメ映画『千夜一夜物語』をつくるので、キャラクター・デザインをやってほしい」という依頼を受けている。
手塚治虫は、柳瀬嵩が所属していた「漫画集団」に、数年前から加入していた。そのため、2人は顔を合わせたことはあった。
しかし、人気絶頂の手塚治虫と、その頃の柳瀬嵩では、「マンガ家の身分でいえば、神様と毛虫」だったと、嵩は称している(やなせたかし『明日をひらく言葉』)。
しかも、柳瀬嵩にはアニメーションの知識はなく、なぜ、手塚治虫が依頼してきたのか、わからなかったという(やなせたかし『アンパンマンの遺書』)。
だが、柳瀬嵩は依頼を受け、虫プロダクションに通い、キャラクター・デザインを手がけた。
そこで柳瀬嵩は、手塚治虫の超人的な仕事ぶりを目の当たりにする。
手塚治虫は、こちらの机でアニメ映画の絵コンテなどを描いていたかと思えば、こちらの机でマンガを描いており、しかも超がつくほどの早描きだったという。
柳瀬嵩は「天才というのは、手塚さんのような人をいうんだね」と、その後もよく語っていたという(以上、やなせたかし『明日をひらく言葉』)。
『千夜一夜物語』は昭和44年に(1969)に公開され、興行的に大ヒットした。
しかし、あまりに制作費がかかりすぎたため、赤字だったという。
それでも、手塚治虫は柳瀬嵩を赤坂の料亭に招待し、背広の仕立て券を贈ったうえに、「ヒットのお礼に、アニメーションの短編を自由に作ってください」と提案した。制作費は、手塚治虫のポケットマネーから出すという。
こうして、柳瀬嵩はアニメーションを手がけることになる。
柳瀬嵩が選んだのは、『やさしいライオン』だった。