1985年8月14日撮影。機体が散乱する墜落現場(写真:共同通信社)
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 1985年8月12日夕方、羽田空港発、大阪・伊丹空港行きの日航機がレーダーから消えた。墜落したことが判明した。死者520人、生存者はわずかに4人という単独機事故としては世界史上最悪の航空事故となった。

 あれから40年になる。4人はなぜ助かったのか。そしてその後、どのような人生を辿っていったのか――。

「たまたま衝撃を和らげる状況であったために…」

 群馬県・御巣鷹の尾根に日航機が墜落したのは8月12日18時56分。墜落現場の特定に時間がかかり、地上からの現場視認が出来たのは翌13日7時34分だったという。最初の生存者が発見されたのは10時45分だった。

 乗客524人(乗客509人、乗員15人)中、助かったのはわずか4人だけだった0.76%の生存確率である。

 墜落事故から2年後の1987年6月19日に公表された運輸省航空事故調査委員会の事故調査報告書のなかにある「生存者の受傷の状況」の項目(24ページ)にはこう記されている。

「生存者は乗客4名(全員女性)のみであり、いずれも機体後部の座席列番号54から60、左側及び中央部の座席に着席していた」

「生存者4名とも墜落激突時に発生した強度の衝撃により部位の相違はみられるが骨折が認められ、程度の差はあるが外傷性ショックに陥っており、全治2箇月から6箇月の重傷であった」

 4人が奇跡的に助かった理由について調査報告書は「乗客・乗組員の死傷についての解析」の項目(121~122ページ)のなかで、「4名とも後部胴体の後方に着座しており、数十G程度の衝撃を受けたものと考えられるが、衝突時の着座姿勢、ベルトの締め方、座席の損壊、人体に接した周囲の物体の状況等がたまたま衝撃を和らげる状況であったために、また、床、座席、ギャレイ等の胴体内部の飛散物との衝突という災害を受けることが少なかったこともあって、奇跡的にも生還し得たものと考えられる」と分析している。