陸上自衛隊のヘリコプターで上野村臨時ヘリポートまで搬送し、4名のうち2名は東京消防庁のヘリに移し換えられて、群馬県藤岡市内の病院に運ばれた。
報告書によれば、4名の生存者以外は即死もしくは、それに近い状況だったとしているが、生存者の女子中学生によれば、気づいたときには父と妹は生きていたという。また、非番の客室乗務員は、「墜落した直後は周囲から『がんばれ』という励ましや『早く助けに来ないのか』などという話し声が聴こえていたが、次第に静かになっていった」と語っていた。墜落直後の段階では、生存者はもっと多かったものと思われる。
生存者に取材が殺到
救出された4人は、日航のCAで非番のために一人で搭乗していた落合由美さん、実家がある東京から兵庫県芦屋市の自宅に帰宅するために家族で搭乗していた主婦の吉崎博子さんと長女で小学生だった美紀子さん、そして北海道旅行を家族で楽しんだ後に大阪に寄るために搭乗した島根県出身の中学生の川上慶子さんだった。
吉崎さんは夫と長男・二女を、川上さんは両親と妹を事故で喪った。川上さんの兄は、クラブ活動のために実家に残っていたため無事だった。
生存者のうち3人は群馬県藤岡市内にある公立多野総合病院に緊急入院した。この地域は多野郡と呼ばれており、地域の重要な医療機関である。もう1人の川上さんは多野総合病院で応急処置を受けた後、国立高崎病院に運ばれ入院していた。
当時、筆者が所属していた週刊誌の編集部からは、生存者の様子を取材するように、可能なら肉声を拾ってくるように、との指令が出ていた。とんでもない無理難題である。
ともあれ現場で取材をしている身とすれば、病院の下見くらいはしておかないと言い訳が立たない。しかし3名が入院している多野総合病院は、警察の監視が厳しいと耳にしていた。そこで筆者は、エレベーターではなく、院内の非常扉の向こう側にある階段をつかって、目星をつけていたフロアまで上がった。非常扉をそっと開けてみると、廊下に置かれた椅子に腰かけていた、体格の良いワイシャツ姿の中年男性と目が合ってしまった。
「来ると思っていたんだよ。お前ら、○○テレビだろ?」
男性在京キー局の名前を挙げた。
筆者はとぼけて聞いてみた。
「なんで分かったんですか?」
「何年警察やっていると思っているんだ。(取材は)ダメだから帰りな」
分かってはいたが、病院内で生存者に接触することは不可能であることが分かった。