「取材はお断りしています」
一方、国立高崎病院に入院中の川上さんは、病院側の計らいで、退院の際に屋上から元気になった様子を下にいる報道陣に撮らせてくれることになった。過熱する取材合戦を落ち着かせようという配慮だった。
その時の川上さんは、右手には白いギブスをしたままだったが、その後は島根の実家近くの病院で治療をするということだった。
両親と妹をなくし、これからどんな人生を歩んでいくのかと想像すると、無性に不憫に感じられた。
1985年9月28日、松江市の病院から一時帰宅する川上慶子さん(写真:大久保千広/アフロ)
ただ、週刊誌記者として、日航機墜落事故の生存者への取材はその後も続くことになった。
川上さんにはそれから何年も後に、大阪にある看護系の学校に通っていたときに、接触を試みた。
「取材はお断りしています」
としっかりした口調で断られてしまったが、事故当時、中学生だった川上さんが、立派に成長している姿を見て、感慨深くなったものだ。その後、川上さんは看護師となり、さらに3人の子を持つお母さんになったと報じられている。
「もっと大勢の人が助かっていると思っていた」
呆れられるかもしれないが、吉崎さんへのアプローチも何度かしていた。
都内にある吉崎さんの自宅にたびたび足を運んでいたのだが、そのたび取材は断られていた。
だが、やはり事故から何年もたったある日、玄関わきのチャイムを押して要件を告げると、「どうぞ、お入り下さい」という返事が返ってきた。
どんな風の吹き回しだったのか分からないが取材がOKされたのだ。
筆者は初めて会う吉崎さんに、離陸した日航機が迷走してから墜落するまでの詳細を繰り返し聞いた。
「私ね、墜落するなんて墜落するまで全く思っていなかった。下の子(次女)が気持ち悪くなっていて、その世話で手一杯だったから、怖いとか思う気持ちもなかった」