アヘン戦争における九龍砲台の活躍

チャールズ・エリオット

 九龍地区は砲台を用いてイギリス軍に徹底抗戦の構えを示した。九龍砲台の守備に当たったのは頼恩爵(らいおんしゃく)という軍人だった。頼恩爵の父、頼英揚(らいえいよう)は1回目に触れた両総督百歳からの覚えめでたく、頼氏一族自体は三代五将の名門として知られている。


 1839年、エリオットはマカオにて英国商船艦隊5隻と合流。これらを率いて九龍湾に突如として現れた。清側はイギリス側の奇襲に対し、九龍砲台で応戦した。頼恩爵側からの報告書によると2度ほどの衝突で10時間ほど戦い、死者は2名であったという。一方のイギリス側の報告によればこの戦いによる被害はなく、死者もなかったとされている。どちらの報告が真であるかは定かではないが、イギリス側としては物資調達拠点として九龍を押さえられなかったのは痛手であったのではないかと思う。この戦いがアヘン戦争における清国とイギリスとの初めての衝突であった(九龍海戦)。

 九龍海戦の功により、頼恩爵は副将に昇格した。そして頼恩爵の提案を受け林則徐主導のもと、香港地区一帯に砲台が新設され、軍備が進んでいった。頼恩爵の活躍もあり、ここにきて九龍城砦の軍事拠点としての重要性が高まっていった。これまで武官の中でも等級の低い者が管轄するにすぎなかった九龍寨に、副将クラスが駐留するようになったのだ。

敗戦…香港島、イギリスの管轄へ

 徹底した守備によりイギリスの侵攻を抑えることに成功した九龍一帯。しかしアヘン戦争全体として見ると、清国はイギリスの火力に押され大敗を喫した。1841年、イギリス海軍は香港島の北岸に上陸し、英国旗を立てた。1842年8月には南京条約が成立し、アヘン戦争が終結。翌1843年6月に香港島が直轄直営地としてイギリス帝国に編入された。以降、香港は第二次世界大戦中の3年8カ月の日本帝国軍占領期間をのぞき、1997年の返還までイギリスの植民地となったのである。だがこの時にイギリスに編入されたのは香港島だけであり、九龍地区は依然として清国のものであった。

 香港総督への対応は両総督の耆英(きえい)が当たることとなった。耆英は新たに九龍巡検を設け、九龍寨に常駐させた。九龍寨は武官の副将と文官の九龍巡検が駐留する特別な寨の様相を呈していった。九龍巡検は植民地政府とともにいくつもの海賊事案を共同で解決していったが、これは九龍寨に外交処理の権限もあるということでもあり、ますます重要性が深まっていった。そのうちに城壁を築いて城砦として機能させる必要性が生まれていったのである。

耆英