ところがもう時間的には間に合わないんですね。おそらくこれが鈴木侍従長の耳に入らないまま27日となってしまい、天皇は田中義一総理大臣に対して、責任をはっきりさせよ、辞めたらどうか、と言ったようです。

内閣総辞職、そして田中元首相の死

 翌28日、白川義則陸軍大臣がやって来て、天皇陛下に陸軍の処分案を報告します。それは行政処分であって厳罰ではありませんでした。張作霖を守れなかった関東軍司令官は予備役に、同じ理由で河本大作は関東軍参謀を辞職、参謀長以下は譴責処分に、といったように、軍法会議で罪を問うことを一切せず、書類上の裁断で済ませてしまいました。

 これを聞いた天皇は、再び田中首相を呼び寄せ、一体どういうことなのか、これで済むと思うのか、お前は辞めるように、と今度ははっきり告げました。

 田中総理大臣は逃げるように辞去し、7月2日に総辞職をしました。

 この後、田中さんはすぐに亡くなってしまいます。この時のショックが心臓に響いたともいわれますが、自決をしたという説が可能性の一つとしてささやかれています。

田中義一(写真:Ullstein bild/アフロ)田中義一(写真:Ullstein bild/アフロ)

張作霖事件の終焉と、昭和天皇の苦悩

 結果としては、張作霖爆殺事件はこれでケリがついたわけですが、ここで大事なのは、天皇が政治に口を出して内閣総理大臣を辞めさせてしまったことです。

 これについて『独白録』を見ると、

「こんな云い方(「辞めるように」)をしたのは、私の若気の至りであると今は考えているが、とにかくそういう云い方をした。それで田中は辞表を提出し、田中内閣は総辞職をした。聞くところによれば、もし軍法会議を開いて訊問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露すると云ったので、軍法会議は取りやめということになったと云うのである」

とあります。

 昭和天皇はこのように記憶しているのですが、これはおもしろい記事です。もし軍法会議にかけたら河本大作は全部ばらすつもりだという、そうなると陸軍中央がみんなグルだったと知れて、下手すると日本陸軍はガタガタになってしまう。そういった陸軍の突き上げに田中さんはにっちもさっちもいかなくなって自ら倒れてしまったというわけです。

 そしてこの結果、陸軍は「一連のことは宮中の陰謀であり、彼らがろくなことを天皇に進言しないから、とんでもないことになる」とし、以降、天皇のそばにいる重臣たちを敵とみなすことになりました。

 これを軍部は「君側の奸」(くんそくのかん)と呼ぶようになりました。天皇は、この時、重臣たちへの恨みを含む一種の空気が出来てしまったことが、後に二・二六事件を引き起こす原因になったのかもしれない、とも言っています。