
2025年は昭和100年にあたる。令和の今、昭和を生きた先人からから学ぶことは何か。約60年間にわたり昭和史研究を続けた半藤一利氏(1930-2021)が、「激動の昭和」の幕開けとなった「張作霖爆殺事件」を語る。全3回の1回目。(JBpress編集部)
(半藤一利:作家)
※本稿は『新版 昭和史 戦前篇』(半藤一利著、平凡社)より一部抜粋・再編集したものです。
昭和という大動乱の幕開け「張作霖爆殺事件」
よく「満洲某重大事件」といわれますが、張作霖(ちょうさくりん)という中国の大軍閥の親玉が乗った汽車を、日本軍が爆破して暗殺したという、いわゆる張作霖爆殺事件について話します。
明治44年(1911年)、中国では孫文らによって辛亥革命が起こり、清国が倒れて共和制が敷かれます。その翌年には南京を都として中華民国がつくられました。この時から中国が、新しい国家として登場し、日本のとるべき政策に大きく影響してくるようになります。
といっても簡単に統一されたわけではなく、方々にいた軍閥がぶつかり合い、国民党軍と戦ったり、また国民党軍内部で勢力争いがあったり、さらに少し後に成立した共産党軍が国民党軍と衝突したりで抗争が絶えず、大正時代に入っても依然として中国は混乱を続けていました。
それも大正9年(1920年)くらいになりますと、孫文を大将とする広東軍と蔣介石(しょうかいせき)を大将とする江西軍とが一緒になって「国民政府軍」として大勢力をもち、次から次へと大小の軍閥を叩きつぶして統一へと向かっていきました。
日本と蜜月関係にあった満州の大軍閥・張作霖
その頃、東北地方つまり満洲の大軍閥として君臨していたのが張作霖でした。満洲には小軍閥はたくさんありましたが、全体はこの張作霖がおさえていたのです。

やがて張作霖の東北軍と国民党軍が対峙しはじめるのですが、日本としては、満洲をなんとか勢力下に置きたいために、張作霖をうまくおだてて言うことをきくようにしておこうとさまざまな工作をします。
また張作霖も、国民党軍と戦うのに日本軍の後押しを期待しましたから、ここで一種の蜜月時代が少し続きました。すると張作霖はいい気になって大元帥と自称して北京まで進攻し、日本軍の後ろ盾で北京政府までつくってしまいます。
暴走する張作霖に、日本政府が水面下で手を下す
ところが、威張り出したこの大元帥がだんだん日本の言うことをきかなくなってきたのです。こういう時、つまり役に立たなくなった時点で張作霖を亡き者にした方がいい、さもないと満洲の安寧は保てない、と日本は大正10年(1921年)、原敬内閣の時に方針を決めていました。
昭和3年(1928年)、蔣介石の国民党軍と衝突して敗れた張作霖が、北京から逃げてくるという情報が入ります。ここで従来通り張作霖を後押ししてまともに国民党軍と衝突するのは非常に危険だろう、むしろ張作霖を排除して満洲を日本軍自ら統治するかたちにしてしまおう、という計画が陸軍で密かに練られます。
そんな折、張作霖が北京から奉天(現在の瀋陽)へ逃げ帰ってくることがはっきりし、ならばその列車を爆破しようと関東軍の参謀らは考えました。