インバウンドの中国人観光客が多数日本を訪れていた一時期、彼らの間で「東京駅の外観が瀋陽駅にそっくりだ」と話題になったことがある。それもそのはず、どちらも同じ時代に、同じ「辰野式」で建てられたからである。その辰野式という建築様式を完成させたのが辰野金吾。明治から大正にかけて日本が急速に西洋化していく過程で、辰野はヨーロッパの建築様式を貪欲に取り入れたと評されている。国内に残存する辰野の作品としては、日本銀行本店本館や大阪市中央公会堂などが有名である。
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(文+写真:船尾 修/写真家)

 満洲事変が起きたのは1931年(昭和6年)であり、満洲国の建国はその翌年のことだが、実はそのかなり前から満洲という地にはたくさんの日本人が渡り居住していた。日露戦争に勝利したことにより、日本はロシアから長春以南の東清鉄道線を譲渡されることになり、その経営のために南満州鉄道株式会社(略して満鉄)が設立されたのが1906年(明治39年)。本格的な日本人の入植はこのころに始まったといえる。

 鉄道を経営していくためには線路以外にも駅舎を建てたり新線を伸ばしたりと当然ながら周辺の土地も必要になってくる。このため日本は清国に対して「鉄道附属地」という名の租借地を認めさせ、さらには警備のための軍隊の駐留が必要だという要求を押し通すことに成功した。鉄道の線路1キロあたり15名以内の兵士を配備する権利を得ることにより、鉄道附属地は実質的に日本の支配下に置かれることになったといえる。

 領土ではないけれど限りなく領土に近いこうした支配の方法は、日露戦争以前にすでにロシアによって実行に移されていたものだ。非常に巧妙かつ狡猾なやり口と言えるだろう。日露戦争に勝利後、日本は遼東半島を得ただけでなく、こうしたロシアのやり方をそっくりそのまま真似て引き継いだのである。

 その後、辛亥革命が起きて清朝が滅び、満洲の地が軍閥である張作霖・張学良父子の支配下に入った経緯は前回の記事(「戦後75年・蘇る満洲国(2)奉天、満洲事変の舞台」)で述べたとおりであるが、この無政府状態が続く権力の空白期にも、日本は満鉄を中心として粛々と都市計画を進めた。

 当初設定された鉄道附属地の総面積は183平方キロ。満洲国が建国される直前には371平方キロと倍増されたが、それでも日本の国土の3倍の総面積を持つ広大な満洲の総面積に比べると微々たるものかもしれない。しかし当時は鉄道というのは経済をまわしていくための大動脈ともいえる重要な位置にあったので、満鉄は鉄道の周辺部に資本を集中投下して新たな街を建設していくことで、満洲発展の起爆剤にしようとしていた。

 外務省外交史料館に保管されている1923年(大正12年)発行の「関東州並満洲在留本邦人及外国人人口統計表」によると、奉天(のちの瀋陽:しんよう)に居留する日本人の総数は約3万3000人であり、そのうち鉄道附属地内には3万人ほどが居住していたのがわかる。この数字は満洲国建国の10年ほど前のものなのである。

 満洲国は日本が敗戦した年にわずか13年半で消滅したことになっているが、それは支配の主体が満洲国か日本国かというだけの話であり、実際には鉄道附属地が設定されたときから満洲国の基礎作りが開始されていたと考えるべきだろう。

 奉天の鉄道附属地は、満洲のなかでも最大の面積を誇った。清朝が誕生した由緒ある故地であり、その後を支配した張父子が奉天城内に拠点を置いたことからもわかるように、奉天(瀋陽)は政治と経済の中心地であった。だから満鉄がこの地に最大の鉄道附属地を設けたのは自然の成り行きだったと想像される。