瀋陽の街の中心部に現在もかつての清朝黎明期の王宮が「瀋陽故宮博物館」として保存されている。清朝建国の基礎を築いた太祖ヌルハチとその息子の清朝初代皇帝ホンタイジは実際にここに居住した。落成は1636年(寛永13年)。写真の「崇政殿」の建物は、皇帝が実際に執務するために、また外国からの使徒と接見するために使用された。
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(文+写真:船尾 修/写真家)

 中国の歴史は王朝の勃興と滅亡の繰り返しそのものだが、最後の王朝は「清」である。その清朝は1911年(明治44年)に起きた辛亥革命によって滅びることになったが、それまで約300年間中国全土を統一した。

 辛亥革命後には孫文によって樹立された中華民国臨時政府が政権を引き継いだが、広大な大陸をまとめることができずに、やがて各地の軍閥による複雑な権力闘争が続いたため内乱状態に陥った。北京に首都を置く中華民国(いわゆる北洋軍閥政府)が形式上は中国を代表する政府だったが、中国国民党の蒋介石が1928年(昭和3年)に南京に国民政府を樹立するなど混沌とした政治状況が続いていた。

 満洲国が建国されていく過程においては、満洲を含む中国全土が内乱状態にあり、政治的に非常に不安定であったことは、これから話を進めていくうえでとても重要なのでぜひ記憶しておいていただきたい。

 私たちはよく「中国」とひとまとめにしがちだが、中国は多民族国家である。人口の94パーセントを占める漢民族以外に55の少数民族が暮らしている。民族が異なれば、言語や習慣、信仰などの文化も当然それぞれ異なる。

 現在の中国は1949年(昭和24年)に成立した中華人民共和国のことを指すが、党大会の顔ぶれを見てもわかるとおり漢民族が実権を握る国家である。これに対して清朝は漢民族ではなく、もともと中国東北部に暮らしていた満洲族が打ち立てた政権であった。王朝や権力は連続するものと思い込んでいる日本人にはなかなか理解しにくいのだが、中国では王朝が滅亡すると権力もすべて交代することになる。そういう意味では、満洲国の存在は現代の政権を担う中国共産党政府とは切り離して考えないと歴史認識を誤る可能性がある。

 清朝の太祖はヌルハチ。その息子のホンタイジが国号を後金国から大清と改めた。1636年(寛永13年)のことである。清の首都はその後、北京に定められたが、当初は民族発祥の地である盛京に置かれていた(その後、奉天と改称)。奉天は現在、遼寧省の省都である瀋陽であり、当時の王宮である瀋陽故宮や皇帝の陵墓が保存され一般公開されている。私も何度か足を運んだが、いつも中国各地からの観光客で賑わっていた。

関東軍が仕掛けた「満洲某重大事件」

 さて話を辛亥革命後の混乱期の満洲に戻そう。奉天を中心とした満洲一帯を支配したのは軍閥の張作霖であった。地方の一馬賊であった張作霖は次第に力を蓄え、東北三省(いわゆる満洲の地を指す)の独立を宣言するまでになっていた。1919年(大正8年)に設立された関東軍は彼の後ろ盾になることによって虎視眈々と勢力拡大をもくろんでいた。

 ところが、したたかな張作霖は関東軍の支援を受けながらも適度な距離を取っていたことから、関東軍は次第に彼の強大な軍事力を怖れるようになっていった。そしてついに行動を起こす。

 奉天郊外で鉄道の陸橋を爆破し、張作霖の乗った列車を吹き飛ばしたのである。1928年(昭和3年)のことである。関東軍はこの事件に乗じて満洲全土に進軍し一気に占領する計画だったと言われるが、そのときは不首尾に終わった。この張作霖爆殺事件は日本では「満洲某重大事件」と呼ばれたが(中国では皇姑屯事件と呼ばれる)、事件の真相は戦後まで隠されていた。

 権力を引き継いだ息子の張学良はあからさまな排日政策をとるようになり、満鉄に並行した新たな線路を敷設するなど、日本の権益を侵し続けることになる。満洲に入植した日本人の間でも不満が溜まりつつあった。このため関東軍が次の行動を起こすまでさほど時間はかからなかった。

 1931年(昭和6年)、今度は奉天北部にある満鉄の線路が爆破された。関東軍はそれを「中国人がやった」と宣伝、在留日本人の保護を理由に満洲各地へ派兵したのである。現場の場所の名前を取って柳条湖事件と呼ばれるが、満洲事変と呼んだほうがしっくりくるだろう。中国側では事件の起きた日にちなみ、九・一八事変と呼ばれている。

 私たち日本人はほとんどが知らないことだと思うが、現代の中国ではこの日を「無忘国恥の日」(国の恥を忘れることなかれ)と定め、日本が中国大陸への侵略を開始した日として国民に教育している。

 満洲事変を計画したのは、関東軍の板垣征四郎大佐と石原莞爾中佐であった。このとき張学良はすでに蒋介石の南京国民政府の配下に入っていた。国民党は共産党と内戦状態にあったため、とても関東軍と戦火を交える状況ではなかった。そのため張学良は関東軍に対していっさい武力闘争に出ることはなかったのである。

 その結果、吉林、錦州、チチハル、ハルビンとまたたくまに満洲の大地は関東軍によって占領されることになり、翌年の満洲国建国へと歴史の針は大きく進んでいくのである。