拡大画像表示
(文+写真:船尾 修/写真家)
戦前、日本が起死回生を賭けて建国を進めた満洲国。しかし日本の敗戦とともにその歴史はわずか13年半で幕を閉じた。日本人にとって満洲国とはどのような意味を持っていたのだろうか。そして中国大陸におけるかつての満洲国の実体とはいかなるものであったのだろうか。
日本と中国をつなぐ存在としての満洲国に私は興味を抱き、かつての満洲国の残り香を求めながらカメラを手に現在の中国東北部を歩きまわった。そしてその結果、当時の建築物が思いもかけない形でたくさん残されていることを知る。このたびの連載では、当時の状況や歴史的バックグラウンドを辿りながら、現在もなお残存する満洲国時代の建築物を紹介していきたい。
満洲国の出発点になった旅順、関東州
日本が太平洋戦争へと突き進んだ原因はもちろんひとつだけではないが、日露戦争における勝利とそれに続く満洲国の建国にそのターニングポイントを求めることに異論を差し挟む余地はないだろう。日露戦争の直前、東アジアは不穏な空気でおおわれていた。ロシアを筆頭にイギリス、ドイツ、フランスといった列強が清国(現在の中国)に対して領土を割譲させ、虎視眈々とさらなる領土拡張をもくろんでいたからである。
特にロシアは遼東半島の重要な港である旅順を清国から租借して軍事基地化を進め、朝鮮半島や日本本土に睨みを利かせるようになっていた。当時、ロシアは世界でも最強の陸軍を擁しているといわれており、日本にとって非常に大きな脅威となっていたのである。
拡大画像表示
外交による問題解決に失敗した日本はついに1904年、ロシアに対して宣戦布告。日露戦争の始まりである。旅順に築かれた堅牢な要塞に阻まれて、日本軍は屍の山を築くことになったが、翌年にはついに攻略に成功する。日本は満洲の大地の北進を続け、遼陽、奉天(現在の瀋陽)における会戦に勝利。さらには対馬沖海戦でバルチック艦隊を撃滅することに成功し、多大な人的被害を被りながらも最終的に日本はこの戦いに勝利したのである。
賠償金こそ取れなかったが、日本は遼東半島の租借権を手に入れ、北方の長春まで伸びる鉄道などのロシアの権益を引き継いだ。満鉄(正式名は南満州鉄道)はこのとき正式に誕生したのである。租借した遼東半島は関東州と名付けられた。なぜ「関東」という名称なのか混乱される方も多いが、これは万里の長城の東端である山海関の東側に位置することから、「関の東側」という意味である。
またこれも混同しがちだが、関東州はその後に建国される満洲国ではなく、あくまでも日本の租借地という名の領土であることも付け加えておきたい。しかしながら満洲国の出発点は日露戦争に勝利したことによって得た旅順や関東州にあることは間違いなく、そういう意味で連載の第1回目は旅順を取り上げることにした。
街全体がまるごと博物館
ロシアとのポーツマス条約締結後、日本は遼陽に関東総督府を設置する。初代の総督には陸軍大将の大島義昌が任命された。
これは余談だが、現在の安倍晋三首相は父方の祖母が大島義昌陸軍大将の孫娘にあたり、つまり安倍首相は玄孫(やしゃご)ということになる。
ついでに付しておくと、安倍首相の祖父である岸信介は戦前、当時の商工省官僚であったが、建国間もない満洲国の国務院高官として産業開発5カ年計画に携わるなど、満洲国とは切っても切れない深い関係を築いた。そうした日本の権力構造に流れる血縁の太い糸を見たとき、権力の中枢とはまさにこういうことを言うのかと粛然とする思いだった。
話が少しそれた。関東総督府は軍政を敷いたが、清国や欧米列強から批判を受けたため、機構を改変して名称も関東都督府に変更する。その後、1919年に民政に移管後は関東庁に再度名称を変更、このとき軍部は独立して後に「泣く子も黙る」と称された関東軍が発足することになったのである。その機構改変に伴い、関東軍司令部および関東庁は旅順に置かれることになった。
近年の中国における都市再開発のスピードは私たち日本人の想像をはるかに越えるほどすさまじいものだが、こと旅順(現在は大連市旅順口区)に関してそれは当てはまらない。おそらくその理由は旅順が軍港であることと無関係ではないだろう。
地図を見るとよくわかるが、黄海と渤海に挟まれて南へ大きく張り出している遼東半島の最も先端にある旅順は、地政学的に非常に重要な位置にある。そのため旅順はロシア占領時代から軍港として栄えた。関東軍司令部が街の規模がはるかに大きい大連ではなく旅順に置かれたのもそのためだと思われる。現代においても中国にとって重要な軍港であることに変わりはない。そのため比較的自由な個人旅行が許可されるようになったのはわりと最近の話である。
私は実際に訪れてみて、この地に日露戦争時の戦跡や満洲国時代(関東州の時代)の建築物が多数保存されていることに驚いた。街全体がまるごと博物館といっても過言ではないかもしれない。それはおそらく軍事拠点としての旅順だからこそ過剰な再開発の波から逃れることができたためだろう。
今回の連載では、現代の中国東北部に残存する満洲国時代の建築物を訪ねることによってその歴史的背景を検証し、日本人がかつてこの地でどのようなことを考え何をしようとしていたのかを考証してみたいと思う。