南満洲鉄道(略称「満鉄」、1906~1945年)は、初代総裁・後藤新平のもと、鉄道のみならず新聞、ホテル事業、調査機関などへと事業を拡大した。表向きは鉄道経営の会社でありながら、実質的には日本の国家機関として政官軍の思惑に翻弄され続けた満鉄。前回は、満州事変の遠因となった満鉄総裁人事について紹介した。後編では、関東軍と満鉄の関係について取り上げる。(JBpress)
(※)本稿は『満鉄全史 「国策会社」の全貌』(加藤聖文著、講談社)の一部を抜粋・再編集したものです。
関東軍の力が増大する
(前編)荷が重すぎて命を縮めた「満鉄総裁」という仕事
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/57091
満鉄と関東軍との蜜月時代は長くは続かなかった。明治以来ここまでの大陸政策では満鉄が主役であり、関東軍は脇役に過ぎなかったが、満洲事変とそれに続く満洲国の建国を力で実現した関東軍と満鉄との立場は完全に逆転した。
ただし、立場が逆転したからといって満洲での満鉄の影響力が一朝にして失われたわけではない。満鉄は依然として満洲国内随一の巨大企業であり、「独立国」として誕生した満州国が独り立ちしていくためには満鉄の経済力と人材が必要不可欠だった。関東軍にとっては、この満鉄をコントロール下におくことが真の満洲の主となるためには絶対に必要だったのだ。
「満鉄改組」問題
1933年10月に関東軍参謀の沼田多稼蔵(ぬまだたかぞう)中佐が新聞記者に漏らした発言が、満鉄改組問題の発端といわれる。
満鉄改組とは、関東軍が多角事業を展開する満鉄を事業ごとに分割し、本来の満鉄は持株会社とする計画を練り、満鉄内部では八田嘉明(はったよしあき)副総裁がこれに呼応して計画を一気に実現しようとしたものだった。
これに対して、社内では満鉄社員会を中心に轟々たる非難が上がるとともに、国内では株価が急落、売り出し中の社債も売れ残り、資金調達に支障を来すようになった。さらに、政府内では拓務省が強く抵抗し、関東軍は改組案を撤回してひとまず事件は落着する。
これまで、満鉄に対する関東軍の影響力増大については、当事者の回想もこれまでの研究でも満鉄改組問題が必ずといってよいほど大きく取り扱われ、ほとんどが満鉄支配を目論む関東軍とそれに抵抗し社員一丸となって野望をくい止めた満鉄という図式で語られてきた。