南満洲鉄道株式会社(略称「満鉄」、1906~1945年)は、初代総裁・後藤新平のもと、鉄道のみならず新聞、ホテル事業、調査機関などへ事業を拡大した。表向きは鉄道経営の会社でありながら、実質的には日本の国家機関として政官軍の思惑に翻弄され続けた満鉄。その実態と「国策」の問題点を、歴史学者、加藤聖文氏の著書『満鉄全史』から2回にわたって紹介する。(JBpress)
(※)本稿は『満鉄全史 「国策会社」の全貌』(加藤聖文著、講談社)の一部を抜粋・再編集したものです。
国策会社「満鉄」が抱えた矛盾
大日本帝国は明治以来、あたかも一貫した「国策」によって満洲支配を遂行したかのように受け止められているが、実際は、陸軍・関東軍・外務省・関東都督府(関東庁)・政党・満鉄などの諸政治勢力、後藤新平(ごとうしんぺい)・原敬(はらたかし)・松岡洋右(まつおかようすけ)・山本条太郎(やまもとじょうたろう)・石原莞爾(いしわらかんじ)ら満洲や満鉄に深く関わった人物それぞれにおいて「国策」のイメージも受け止め方もバラバラであり、満洲支配は何ら統一された意思も構想も実行もないまま、さまざまな矛盾を抱えながら進められ、そして破綻していった。
こうした不統一さを背景として、満洲支配の牽引車としての使命を担った国策会社満鉄とそれを利用しようとする諸政治勢力との関係は、その時々の政治情勢の影響を受けながら対立と協調と支配を繰り返すことになった。
国策性を否定された戦後の影響も多分にあろうが、満鉄というとどうしても企業のイメージが強く、満鉄史=経営史と捉えられるか、満鉄の代名詞にもなっている調査部の歴史をもって満鉄の歴史とされがちである。
しかし、満鉄の本質は政治性にあると私は考えている。近代日本にとって、満洲は他の地域よりもはるかに重要な政治性を持っていたことと比例して、満鉄は他の国策会社よりもはるかに強い国策性を持っていた。目に見える数字であらわすことのできる経済では決して推し量れない人間の欲望を糧とする政治の影響力を無視しては、満鉄を語ることはできない。