日本では不世出の名将として語られることが多い第2次世界大戦の軍人ロンメル。だが近年、欧米における評価が変化してきているのをご存じだろうか。40年近く認識のギャップが生じている日欧の「ロンメル論」を、軍事史研究者の大木毅氏が3回に分けて紹介する。(JBpress)

(※)本稿は『「砂漠の狐」ロンメル』(大木毅著、角川新書)の一部を抜粋・再編集したものです。

ロンメルの手腕への疑問符

 エルヴィン・ロンメルといえば、第2次世界大戦中、戦車を中心に、機械化された歩兵・砲兵・工兵などを編合した装甲部隊を率いて、連合軍をきりきり舞いさせた不世出のドイツの名将とのイメージが顕著だろう。

 このような「名将ロンメル」論は、1970年代なかばまで、欧米でもほぼ定説であったといってよい。けれども、1970年代後半になると、ロンメルの軍人としての資質や能力に疑問が呈されるようになった。それまでの顕彰への反動からか、新しいロンメルに関する文献は「偶像破壊」に走るきらいがある。

1917年、イタリア戦線でのロンメル(出所:Wikipedia

 なかでも激烈だったのは、いまやネオナチのイデオローグとなったイギリスの著述家、デイヴィッド・アーヴィングが1977年に刊行した『狐の足跡』だろう。

 今となれば、アーヴィングは、最初から結論ありきの論述を行う人物だとあきらかになっている。しかし、『狐の足跡』出版当時のアーヴィングは、歴史家としての専門訓練こそ受けていないものの、精力的に史料や証言の博捜(はくそう)に努めていることで知られていた。そんな人物が、ロンメルは名誉欲にかられて、ある意味無謀な作戦を遂行、不必要な損害を出したと主張したのである。このセンセーショナルなロンメル伝は、当時の西ドイツでベストセラーになった。

 しかしながら、あらかじめ述べておくとアーヴィングの主張は、今日なお認められているわけではない。『狐の足跡』はすでに出版時から、ロンメルの息子であるマンフレート(ドイツ・キリスト教民主同盟CDUの政治家で、当時シュトゥットガルト市長であった)をはじめとする、関係者や歴史家に厳しく批判されてもいた。史料の歪曲や恣意的引用を多々含んだ書物であることは、わかっていたのである。

更新されない日本での評価

 ところが、日本では『狐の足跡』が早くから邦訳され(1984年に早川書房が刊行)、一見、大部で詳細な本と思われるからだろうか。現在でもなお、この本を基にした記述が少なくない。

 近年、日本のアカデミズムにおいても、社会史・日常史的な関心に基づく「新しい軍事史」の研究は盛んになってきてはいる。だが、もともと日本のアカデミズムでは戦史や軍事史を扱わないことや、旧日本軍・自衛隊に属した人のなかで、ドイツ語と軍事に通じた人材が世を去ったことなどにより、ドイツ軍事史の研究成果が紹介されなくなったという事情がある。