オーストリア・ウィーンの街並み

(佐藤 けんいち:著述家・経営コンサルタント、ケン・マネジメント代表)

 世界で初めての「世界大戦」となったのが、いまから約100年前の第1次世界大戦である。第1次世界大戦では、実に多くの若者たちが死傷している。戦死者数の総計は1914年からの4年半で約900万人、非戦闘員の死者が約1000万人、負傷者は約2200万人と推定されている。まさに未曾有の大戦争であった。

 日本が「日英同盟」を理由に参戦したことは、すでにこのコラムでも2回にわたって書いた通りだ(「日本に住みつき『技術』を伝えたドイツ人捕虜たち」「今こそ日本が振り返るべき100年前の海軍の活躍」)。日本が参戦したことによって「世界大戦」となったことはまぎれもない事実である。とはいえ、言うまでもなく主戦場はヨーロッパであった。

 その戦場には、当事者であったヨーロッパ人だけでなく、英連邦のオーストラリアやニュージーランド、そしてカナダからも人員が大量に投入された。また、英国もフランスも、植民地のインドやアフリカ、インドシナ(=ベトナム)から現地人兵士を投入している。まさに国を挙げての「総力戦」だったのだ。

 そして、それはきわめて悲惨な戦争であった。長引く塹壕戦を打開するために戦車や航空機など数々の新兵器が投入され、毒ガスまで投入されている。毒ガスはその時点ではまだ禁止されていなかった。その意味では、第2次世界大戦より悲惨であったといえる。悲惨だったのは戦死者だけではない。重傷を負ったために社会復帰できなかった者や、たとえ生き残っても「シェルショック」(砲弾ショック)という戦争後遺症に苦しんだ者も少なくなかった。現在ではPTSD(心的外傷後ストレス障害)の概念に該当するものだ。

最前線で激戦を戦い抜いた2人の若者

 もちろん出征した兵士のすべてが戦死したり社会復帰できなかったわけではない。生還率がきわめて低い激戦を最前線で何度も体験し、負傷しながらも、戦争の4年半を生き抜いた若者たちもいた。

アドルフ・ヒトラーのカラー化された公式ポートレート(1938年)、出所:Wikipedia

 今回は、その生き残った兵士たちのなかから、2人の若者について見ていきたい。それは、アドルフ・ヒトラーとルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインである。オーストリアが生んだ2人の「天才」である。ナチスドイツの独裁者で「総統」となった「天才的政治家」ヒトラーと、「20世紀最大の哲学者」として知られる「天才的哲学者」ウィトゲンシュタインだ。

 あまり注目されることはないが、この2人は同年生まれであるだけでなく、同世代の人間としてさまざまな共通点を持っている。世界大戦が勃発した際には25歳。まだ彼らは何者でもなかった。そしてともに4年半にわたる世界大戦を、徴兵による招集ではなく志願兵として体験し、別々の戦場で激戦を勇敢な兵士として戦い抜き、ともに何度も勲章を授与されている。