日本では不世出の名将として語られることが多い第2次世界大戦のドイツ軍人、ロンメル。だが近年、欧米における評価が変化してきているのをご存じだろうか。40年近く認識のギャップが生じている日欧の「ロンメル論」を、軍事史研究者の大木毅氏が3回に分けて紹介する。前回は、ロンメルの指揮方法が戦術レベルでは有効だったものの、戦略の次元では通用しなかったことに触れた。今回は、第2次世界大戦の趨勢を大きく左右することになったロンメルの致命的な判断ミスを取り上げる。(JBpress)
(※)本稿は『「砂漠の狐」ロンメル』(大木毅著、角川新書)の一部を抜粋・再編集したものです。
従来の装甲部隊論争は誤解
(前回)「名将」ロンメルの歯車が狂い始めた瞬間
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55864
1942年3月1日に西方総軍司令官に任命されて以来、ドイツ軍のゲルト・フォン・ルントシュテット元帥は、大西洋沿岸の防衛態勢の確立にいそしんできた。防衛のためには海岸地区で戦線を保持し、その間に集めた予備部隊で連合軍に反撃をかける以外に策はない。そう確信するようになったルントシュテットは、装甲部隊に重点を置くことを決める。
装甲部隊ならば、上陸直後の敵がもっとも弱体な時期にいち早く反撃することができ、重点移動にともなう配置転換も容易だ。この装甲部隊の集中運用こそが、海岸地区の戦線を維持し、敵を粉砕することができると考えたのだった。
しかし、連合軍側にはドイツ装甲部隊を押しとどめる対抗策があった。上陸支援艦隊の「艦砲射撃」がそれである。ルントシュテットも、無論そのことには気がついていた。対抗するために彼が狙ったのは、歩兵部隊その他で海岸線を保持しつつ、艦砲射撃が届かない後方地点に装甲部隊を集結させ、一大反撃をかけて連合軍を撃破することだった。
西方の装甲部隊を統一指揮するために新編され、1944年1月24日付で西方総軍直属となった司令官、レオ・ガイヤ・フォン・シュヴェッペンブルクも、ルントシュテットと同様の意見であった。ロンメルの「敵役」として語られることの多いシュヴェッペンブルクは、装甲部隊をばらばらにではなく、集中運用することが重要だとみなしていた。部隊が集結するためには、24~48時間ほどかかるだろうが、連合軍の主攻正面をみきわめるには、それぐらいの余裕が必要だろうと考えていたのである。
シュヴェッペンブルクは、連合軍の航空優勢下で部隊を動かす際の困難についても、充分に理解していた。だが、夜間前進によって、後方地点から装甲部隊を集結させることは可能だと考えていた。