たとえば、ロンメルは1943年12月13日付の報告書で、「連合軍はまずカレー海峡をめざす」と結論づけているのである。また、1944年5月なかばに、麾下装甲師団3個のうち2個をセーヌ川の北、すなわちノルマンディから遠ざかる位置に置くよう命じてもいる。
しかしながら、さかのぼること1944年1月15日の段階で、連合軍の上陸地点に別の可能性があることが西方総軍より報告されていた。その地点とは、いうまでもなくノルマンディである。ノルマンディに上陸すれば、カレー海峡と同じぐらい有利に作戦を展開できる。比較的短い補給路、空軍支援が充分に提供できるといった条件が満たされるうえに、上陸に適した海岸が広がっているのだった。
それでも、ロンメルは依然として、カレー海峡がもっとも危険であるという意見に固執した。むしろ、ノルマンディ上陸の可能性を危惧したのはヒトラーであった。1944年初頭以来、彼は同地区が攻撃目標になるのではないかとの不安を覚えていたのだ。
1944年5月、ヒトラーは「コタンタン半島に連合軍が海岸堡を築くことが予想されるから、その地の防衛はきわめて重要になる」とロンメルに注意を喚起した。だが、それに対してのロンメルの答えはにべもないものだった。
「重点地区であるカレー海峡から、ノルマンディに兵力を移すことは不可能であります」
独裁者を激怒させそうな回答である。だが、このときのヒトラーはノルマンディ上陸を確信しきれなかったのか、強いて自らの主張を押し通そうとはしなかった。結果として、ドイツ軍首脳部のほとんどは、連合軍はカレー海峡に来るとの想定のもとで上陸準備を進めた。つまり結果的に、彼らは自ら奇襲を招き入れることになったのである
電話で、敵がノルマンディに上陸したとの警報を受けたロンメルは、「私はどうかしていた。大馬鹿者だ」とつぶやいたという。