奇妙な決定であった。一応は装甲師団を現場に預けながら、その使用には手かせ足かせをはめる。従来、この指令はヒトラーの優柔不断によるものと説明されてきた。もちろん、それは間違いではなかろう。だが、今日では「国防軍最高司令部」の意向も反映していたことが判明している。

 国防軍最高司令部は第2次世界大戦突入以来、ヨーロッパの鉄道網を活用し、東西の戦線の決勝点に遅滞なく兵を動かせる「中央予備」を握ることを熱望してきた。しかし、戦争の激化、とくに対ソ開戦以降の情勢は「中央予備」の創設を許すようなものではなかった。

 このような状態にあった国防軍最高司令部にとって、西方における装甲部隊の運用と配置をめぐる論争は、念願の戦略予備兵力をつかむチャンスだったのだ。国防軍最高司令部の参謀たちはこの機会を逃さず、ヒトラーに働きかけて現地部隊から装甲部隊の指揮権を奪ってしまったのである。

 しかし問題は、装甲部隊配置のみにとどまらなかった。連合軍の上陸地点予想についても、ドイツ軍首脳部の見解は分かれていたのである。

カレーか?ノルマンディか?

 1943年ごろまで、連合軍の上陸地点がどこになるかということは、さほど議論にならなかった。というのも、国防軍最高司令部と西方総軍はともに、上陸経路がもっとも短くなるカレー海峡(英仏海峡)に進攻するだろうと判断していたからである。そこに重点を置くべきだという見解で一致していたのだ。

 一方で、「ロンメルは連合軍がノルマンディに上陸するものと信じて疑わなかった」とする説を、唱える文献は少なくない。しかし、ドイツの一次史料に基づいた研究に従うなら、そうした主張は支持できるものではない。