このように、ルントシュテットとシュヴェッペンブルク両者の見解をみれば、彼らが「連合国を内陸部に引き込んで決戦をはかろうとしていた」とする従来の説は、誤解であるとわかる。彼らもまた、艦砲の射程外の海岸堡(かいがんほ)付近での反撃を企図していたのだ。

撃退するチャンスはただ一度

 だが、かかる装甲部隊による集中反撃論に対し、「砂漠の狐」と呼ばれたエルヴィン・ロンメルが真っ向から反対したということは、よく知られている。ヒトラーが計画した「大西洋防壁」が名ばかりのものであることを実感したロンメルは、装甲部隊のみならず、すべての戦力を海岸間近に配置すべきと主張した。

 北アフリカで、連合軍の空軍力のすさまじさを体験したロンメルは、いったん上陸作戦がはじまれば、後方地点に配置された装甲部隊を海岸に召致することは、きわめて困難だとみなしていたのである。ならば、敵上陸部隊が脆弱な状態にあるうちに、現場にあるすべての戦力で攻撃をかけるよりほかに勝機はない。それがロンメルの意見だった。

 この主張を結晶化したのが、有名な「いちばん長い日」という表現であった。ロンメル自身の言葉を、以下に引こう。

「勝敗は海岸で決まる。敵を撃退するチャンスはただ一度しかない。それは、敵がまだ海のなかにいて、泥にもがきながら、陸に達しようとしているときだ。〔中略〕上陸作戦の最初の24時間は決定的なものになるだろう。この日いかんによって、ドイツの運命は決する。この日こそは、連合軍にとっても、われわれにとっても『いちばん長い日』になるだろう」

 かくのごとく、根本的な見解の相違があるのだから、装甲部隊の配置をめぐる対立、いわゆる「装甲部隊論争」は激化する一方だった。

奇妙なヒトラー指示の裏側にあったもの

 1944年4月26日、ヒトラーは装甲部隊論争に裁定を下す。要約すると次のようなものだ。

 ロンメルに3個装甲師団を与え、残りの3個は海岸から離れた後方地点に温存配備すること。ただし、後方地点の3個については、ヒトラーに直接の承認を得なければ運用することはできないものとする。