日本では不世出の名将として語られることが多い第2次世界大戦のドイツ軍人、ロンメル。だが近年、欧米における評価が変化してきているのをご存じだろうか。40年近く認識のギャップが生じている日欧の「ロンメル論」を、軍事史研究者の大木毅氏が3回に分けて紹介する。前回は、1970年以降、ヨーロッパでは「名将ロンメル」という評価が変わりつつあることを紹介した。第2回となる今回は、ロンメルの戦場での指揮方法に、どのような欠陥と限界があったのかを見ていこう。(JBpress)

(※)本稿は『「砂漠の狐」ロンメル』(大木毅著、角川新書)の一部を抜粋・再編集したものです。

自らの師団の活躍をヒトラーにもアピール

(前回)「名将」ロンメルの名声はいかにして堕ちたか
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55860

 エルヴィン・ロンメルが、第2次世界大戦初期の西方攻勢(フランス・イギリス軍の撃破)でめざましい功績をあげると、その活躍はたちまちナチスのプロパガンダを積極的に広げるヨーゼフ・ゲッベルスらによって伝えられた。

 自ら陣頭に立ち、ときには敵の銃火を顧みずに前進するロンメルは、ナチスの理想を体現する将軍として称揚するのにうってつけだった。新聞、雑誌、ラジオやニュース映画は、ロンメルの活躍をもてはやした。たとえば『西方におけるドイツの勝利』という宣伝パンフレットでは、「もっとも勇猛な人物。総統は騎士鉄十字章を与えて、褒め称えた」などと記されている。

1917年、イタリア戦線でのロンメル(出所:Wikipedia

 ロンメル自身も自己宣伝につとめ、とりわけヒトラーに対してはぬかりなく行った。1940年末、彼は西方攻勢における第7装甲師団の戦史をまとめ、革装の特製本にしてヒトラーに贈呈している。そのなかで、自らが率いた第7装甲師団の果たした役割を、過大に描いたことはいうまでもない。

 しかし、西方作戦におけるロンメルの功績には、のちに疑問が投げかけられるようになった。第7装甲師団は、将校48名、下士官108名、兵526名の戦死者を出していたのである。この数字は、他の師団が勝利を達成するのに払った犠牲に比べ相対的に大きい。

 たとえば、常に進撃の先鋒を務めていた第1装甲師団の戦死者は267名にすぎなかった。第7装甲師団に比べれば半分以下である。こうした事実をもとに、第7装甲師団は多くの損害を被っているとして、ロンメルの冒険的な戦法や苛酷な部隊運用を批判する者も現れた。