バラク・オバマ米国大統領の広島訪問では、原爆投下について謝罪をするか否かがクローズアップされ、「謝罪を意味しない」という了解のもとで実現した。
過去の行為に対し後世の人が謝罪することは簡単ではない。現在の倫理観からは断罪すべき行為も、当時は正当化され、多くの国民は納得していたからである。
帝国主義の時代は弱肉強食であり、戦争に勝ち他国を支配することが文明の証ともみられた。こうして欧米列強は世界の隅々まで進出して現地の文化を抹殺し、原住民を殺戮していった。しかし、文明化したとの視点から謝罪などは一切していない。
ここでは、原爆投下の謝罪に関して若干の考察をするとともに、日米の当時のマスコミは原爆投下自体をどう報じたかを見て、ジャーナリズムの健全性を検証する。
米国の「謝罪」ノー
原爆投下によって更に危惧された日米双方の被害を抑え、早期に戦争を終えさせることができたというのが、米国の言い分である。
パールハーバーや戦艦アリゾナで、太平洋戦争の戦没者慰霊祭などが行われるたびに、歴代大統領は原爆投下(と謝罪問題)について質問を受けている。しかし、どの大統領も、当時のトルーマン大統領が決心したことで、現大統領の私が「原爆投下の正否を言うべきではない」と述べてきた。
1991年12月の開戦50周年時には、当時のブッシュ(父)大統領が真珠湾攻撃について「一方的に、または相互に謝罪を求めることはない」と発言しながらも、原爆投下については「謝罪しない」と断言している。
過去の事象を現在の倫理基準で判断してはならないという、当たり前の原則の確認でもあろう。
この原則が覆されるならば、米国が独立当時、Manifest Destiny(明らかな運命)と称して英国本土を脱出して北米大陸の東部から、インディアン(先住民)を惨殺して西部を開拓していった歴史は汚点まみれになるであろう。
何も240年前に遡らなくて、ベトナム戦争やイラク戦争などについても大義がどうであれ、「米国の都合」で参戦し、多大の被害をもたらした面もある。