張作霖が爆殺された現場(写真:近現代PL/アフロ)張作霖が爆殺された現場(写真:近現代PL/アフロ)

2025年は昭和100年にあたる。令和の今、昭和を生きた先人からから学ぶことは何か。約60年間にわたり昭和史研究を続けた半藤一利氏(1930-2021)が、「激動の昭和」の幕開けとなった「張作霖爆殺事件」を語る。全3回の3回目。(JBpress編集部)

(半藤一利:作家)

※本稿は『新版 昭和史 戦前篇』(半藤一利著、平凡社)より一部抜粋・再編集したものです。

第1回 「張作霖爆殺事件」日本軍による暗殺とバレた銭湯でのマヌケな失態
第2回 張作霖事件、「陸軍の関与なし」の報告に昭和天皇が激怒
からつづく。

 ところが歴史というものはまっすぐに進みません。

 この件について6月27日に田中首相が天皇に最終報告をすることになったため、牧野内大臣が念のため先の結論を確認したところ、なんと西園寺さん(西園寺公望、さいおんじきんもち)が意見をひっくり返してしまったのです。

「そんなことをしたらとんでもないことになる。天皇陛下自ら総理大臣に辞めろというなど、憲法上やってはいけないこと。賛成した覚えはない」

というわけです。

西園寺公望が猛反対するも、その日は訪れる

 驚いたのは牧野内大臣で、

「あなた陸軍を抑えなくてはならないとおっしゃったじゃありませんか」と迫っても、西園寺さんは

「天皇自らがそのような発言をすることはとんでもない大間違い」

として、

「明治天皇の時代より未だかつてその例はなく、総理大臣の進退に直接関係すべしとて、反対の意向を主張せられ……」

つまり天皇は総理大臣の進退について余計なことを言ってはいけない、と主張しはじめるのです。

 牧野さんの日記には、「あまりの意外に茫然自失、驚愕を禁ずるあたわず」とあります。

ふだん住んでいた静岡県興津から東京に到着した西園寺公望。1931(昭和6)年11月1日、新橋駅で日本電報通信社撮影(写真:共同通信社)ふだん住んでいた静岡県興津から東京に到着した西園寺公望。1931(昭和6)年11月1日、新橋駅で日本電報通信社撮影(写真:共同通信社)

 半分くらい腰を抜かしてしまって「そんな馬鹿な、これは大変だ」と粘りはするのですが、西園寺さんもゆずらない。

 理由を聞くと、「自分は臆病なり」と西園寺さんは言ったそうです。

 なんとも不可解な話で、最高の責任をもつ元老が臆病を理由に前言撤回などふつう通る話ではないのですが、西園寺さんは猛反対しました。

 牧野さんは「今日は結局の帰着を見ずして公爵邸を辞去したり。三十余年の交際なるが今日の不調を演じたるは未曾有のことなり」と絶望感をもって興津の西園寺邸を引き上げました。