昭和史にいろんな形で出てくる言葉で、いわゆる「君側の奸」または重臣グループと表現される人たちがいます。これは昭和天皇をとりまく元老、内大臣、侍従長、侍従武官長、宮内大臣といった宮中のトップに立つ人たちのグループをいいます。

 元老とは、大正天皇が病身で療養する必要があって後の昭和天皇、裕仁(ひろひと)親王が摂政の宮となったのですが、いくらなんでも16、7歳では全権を任せるのに無理があるというので、内閣総理大臣経験者、明治をしょってきた人たちに補佐をさせました。

 大正時代は山県有朋(やまがたありとも)、松方正義(まつかたまさよし)、西園寺公望の3人がこれを務めたのですが、山県も松方も亡くなってしまい、昭和に入ると西園寺公望ただ一人ということになりました。

戊辰戦争で長岡城攻防戦を指揮

 西園寺さんは前姓を徳大寺といい、当人も公家でしたが、京都の由緒ある公家の西園寺家に婿入りして西園寺を名乗りました。この人は公家さんといいましても、若い時から歴史の荒波に揉まれてそれを乗り切った人で、戊辰戦争(1868年)の際は、北陸方面の西軍の総督格として越後の長岡城攻防戦を指揮しました。

 司馬遼太郎さんが、河井継之助を主人公にした『峠』という小説で、いかに長岡藩が勇戦力闘したかを書いていますが、事実、長岡城奪還作戦では西園寺さんは危うく命を落とす経験をしています。

 周囲が慌てて馬に乗せて逃そうとした時に、西園寺さんは陣羽織を裏返しに着たそうで、そうすれば相手が指揮官とは思わないのではないかということだったようですが、一説には、馬に後ろ向きに乗って逃げたともいわれていまして、いずれにしろ九死に一生を得ました。

30歳前の西園寺公望。フランス留学時代、1877年にベルリンで撮影(写真:近現代PL/アフロ)30歳前の西園寺公望。フランス留学時代、1877年にベルリンで撮影(写真:近現代PL/アフロ)

 第一次世界大戦のパリ講和会議では首席全権大使を務めました。風流な人で、内閣総理大臣時代には森鷗外や幸田露伴ら小説家たちを呼んで「雨声会(うせいかい)」という歓談会を開いたりもしました。夏目漱石も呼ばれたのですが、「ほととぎす厠なかばに出かねたり」という句を詠んで断わったという有名な話があります。

内閣総理大臣を一人で決めていた?

 いずれにしろ元老の西園寺さんは、天皇の御意見番として、昭和前期の内閣総理大臣をほとんど一人で決めたといってもいいと思います。何かあって内閣が倒壊し、次は誰かという時には、西園寺さんが住む静岡県興津の駅前旅館に新聞記者らが殺到するほど権威があり、いわゆる「興津詣で」でこの旅館が大いに繁昌したという逸話も残っています。

 それくらい昭和史のなかで重大な役割を果たし続けたのですが、陰には住友財閥のバックアップがありました。興津住まいでは情報に疎そうなものですが、住友の社員で貴族院議員である男爵の原田熊雄が、同じ京都大学のOBでもあるのですが、秘書というか腰巾着のように西園寺邸に出入りし、近衛文麿(このえふみまろ)(公爵・のちの首相)、木戸幸一(きどこういち)(侯爵・のちの内大臣)らこれまた京都大学出身者グループとつきあって情報を丹念に調べ、西園寺さんに報告していた。

 彼はやがて『西園寺公と政局──原田熊雄日記』という昭和史の第一級史料を残しました。いずれにしろ西園寺さんが昭和天皇のバックにいた重臣グループの横綱ともいえる人でした。